2012年 6月24日 礼拝メッセージ 

「神の御心が地にもなるように」
使徒言行録4章29−37節

キリスト教会が成立した日、即ち、ペンテコステの日に聖霊を待ち望んでいた弟子たちは不思議な霊的経験をしました。聖霊を受けたのです。イエス様は「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしの話したことをことごとく思い起こさせて下さる。」(ヨハネ14:26)「真理の霊が来るとあなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」(16:13)と言われている。しかし弟子たちは、イエス様が十字架に架けられ、三日目に甦られた出来事が、何を意味するのか分っていませんでした。復活されたイエス様は繰り返し、多くの弟子たちに現れて「神の国」について話されました。弟子たちにとっては、神の国はイスラエルのために国を立て直す(使徒1:6)ことであったのです。イエス様は「聖霊が降る時」その神の国の真意を知り、「神の国」を体験する。そして、「神の国」の現実を全世界にのべ伝えることになると(使徒1:7,8)指し示されるのでした。
「神の国」は、即ち、イエス様が十字架にかかられ、復活された意味と使命が分かるときに現実となるのです。弟子たちはイエス様の迫害と受難を目前にして、恐怖と混乱、使命の不可解さに、疑いと目的の喪失、自分の持っていた理想の相違に苦悩するのでした。しかし、弟子たちは約束の聖霊を受ける経験をしたのです。聖霊を受ける「その時、力を受ける」約束の経験をしたのです。正に、その「力」とは、十字架の意義であり、復活の現実の意味と命であるのです。イスラエルの復興は単なるイスラエルでなく、生きとし生ける人の国が「神の国」に復興することを意味していたのでした。イスラエルが世界を征服してその栄光を見ることが、当時のイスラエルの人々、弟子たちの思いでした。そうではなく、イエス様は民族を越え、国を越え、全世界が神の御心にみちる平和を示されているのでした。その現実は「神の国」天国であるのです。遥か、時間と空間を越えた永遠の神の国が、今ここに、地球という罪と憎しみが交錯する地獄としか呼べない空間と時間の存在に、「永遠の神の国」が、現実として私達と共にあるという経験をさせて下さるのが「聖霊」の力であるのです。そして、主イエスは「世の終わりまで、わたしたちと共にいて下さる」と約束されています。(マタイ28:20)正に、「世の終わり」こそ、「主イエスの来臨」の時であるのです。永遠の命、神の国、新しい天と地を神の約束に従って待ち望むのです。(Uペテロ3:10)
神様の約束の現実と未来を待ち望むという真理を、弟子たちは聖霊を受ける経験を通して体験したのでした。キリストに出会い、神様の御心を知らない罪深く、惨めな自分を知り、十字架でイエス様がその罪の贖いを成し遂げ、如何なる罪をも消し去り、神様との交わりを回復して下さる。そして、永遠の命、「神の国」を現実の中で体験し、死を克服して復活の道へと導かれる喜びに生かされるのです。弟子たちは、そこに何にも代えがたい喜び、人生の苦難の克服、生けるイエス様の命を経験する喜び、その喜びが「力」となるのです。弟子たちは如何なる迫害も試練も、この「喜び」の力、命を持って克服する者に完全に変えられたのです。使徒言行録4章には、弟子たちは聖霊を受け、イエス様の十字架と復活を確信を持って伝え、ペテロとヨハネによる生まれながらの歩行困難な男の人の不思議な癒やしを通して5千人の人たちがクリスチャンになったとあります。為政者は、新しい対立的な教えに苛立ち、ペテロとヨハネを逮捕し、議会に召喚しました。あまりにも大きくなった弟子たちの仲間の反発を懼れて、福音の宣教を禁じるのですが、ペテロは恐れることなく「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」(使徒4:19,20)と言います。このように新しいキリスト教会は弾圧と迫害の中で生まれ、成長します。そこには弟子たちが受けた聖霊の命、「力」が息づいていたからです。
第一に、弟子たちは、確信を持って何を伝えたのでしょうか。「御心が地にもなるように」という願いであったのです。それはイエス様の福音の真理、救いの道を伝えることにあります。その福音の真実、神様の愛が、聖霊の恵みによって彼らの心に確信の力をみなぎらせたのでした。ペテロとヨハネが釈放されて、教会集った人々は心を一つにして祈ります。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」(使徒4:29,30)主の御心、イエス様の福音と教えが、どのように弾圧されようとも、脅しに屈することなく助けられるようにと祈るのです。彼らの内に「恐れ」が取り払われているのです。聖霊、即ち、神そのお方が、彼らの内におられ、自覚と確信が支えているのです。
聖霊信仰、ペンテコステの信仰の原点がここにあります。徹底して主に従う所に恐れは取り払われるのです。使徒パウロは言います。「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ロマ8:31,32)原始教会は、「御国が来ますように」を祈り、伝えたのです。それは「御国が近づいている」と言う認識です。主イエスは「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)と宣言されています。再臨を実感して福音を生き生きと伝えているのです。それは今も、教会の使命であるのです。
第二に、「思い切って大胆にみ言葉を語るようにして下さい。」(使徒4:29)と弟子たちは祈るのです。議会の脅迫に対してペテロは、はっきりと言っています。「わたしたちは、見たことや聞いたことを(事実のまま)話さないわけにいかないのです。」(4:20)「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(4:12)このように明確に宣言するのです。永遠の今を、永遠の主が、今、共にいて「御心がなるように」と宣言し、「御心に生きる」喜びと確信を証ししているのです。聖霊に満たされる姿であり経験であるのです。神の言葉、即ち、神の約束に生きるのです。
第三に、「信じた人の群れは」即ち、教会は「心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。」(使徒4:32)原始教会は、驚くべき新しい交わりを形成していたのでした。「思いを一つにする」そこには心の一致が生まれていたのです。目的と使命の一致、人生の生き方をキリストの福音にあって一つにしていました。中途半端な一致でなく、聖霊による一致であるのです。「神の御心が成る」実現する願いであるのです。神の国、即ち、神の御心に支配され、神様の臨在、その命に生きることであるのです。それは愛なる神様の愛が、人の絆として結ぶ、神の国の現実を経験することにあるのです。「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。」(Tヨハネ5:12,13)神の愛に生かされる時、神様の愛で生きることになります。神の臨在は、神様の愛に生かされて体験できるのです。原始教会のクリスチャンは全ての持ち物を整理して共有したと記録されています。現代の社会や経済構造は違います。しかし、人の生きる基本、社会の基本が神の御国の愛の原理に生きることこそ真実の人の目指す道であることを示しているのです。
私たちの教会は、この原始の教会の原点に生きることこそが求められており、いつもどこでもこのペンテコステの日に生まれたクリスチャンの群れ、教会が原点であるのです。

「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも」(マタイ6:10)

 

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