2012年 7月15日 礼拝メッセージ 

「家庭の喪失と神の家族」
エフェソの信徒への手紙2章14−22節

今日の深刻な社会問題は「無縁家族」であって、地域社会の無縁化にあります。地域の高齢化が進み限界集落化が進んでいるのです。阪神チャペルセンターの町も、60歳以上の人口が44,1%で準限界集落と言うようです。146軒の内、30軒は70歳以上の一人暮らしです。町内で小学校に入学するのは1人か2人です。町内では高齢者「見回り隊」や「配食活動」を通して安否を問うようになりました。葬儀の助け合いもなくなり、葬儀も家族だけで、御町内には事後報告ですますようになりました。結婚式も友逹だけで近所の喫茶店で祝会をするだけで済ますこともはやリになっているようです。最近ではお墓も森林葬、海上葬などで済ます人も増えているようです。誰にも看取られることなく「孤独死」する人も増えています。
社会が、どのように変化しても人が生まれ育つのは家庭であり、家族であるのです。家族の絆は、三つあると言われます。「血縁関係」「戸籍関係」「愛の関係」です。「血縁関係」や「戸籍関係」があっても家族の「愛」がなければ幸せな家族とはいえません。
家族が、家族として「幸せ」なのは、お互いに「絆」で結ばれていることです。人を結ぶ絆こそは「愛」であるのです。聖書は「愛は、すべてを完成させる絆です。」(コロサイ3:14)と言っています。この「愛」はイエス・キリストによって現わされた「神様の愛」です。愛し合うことは信頼することであり、信頼は、友好であるのです。それは平和であります。平和こそ、信頼と友情が裏付けられて成り立つものです。聖書は「キリストは私たちの平和であります。」(エフェソ2:14)と言っています。キリストが、私たちの平和の基礎であるのです。キリストを信じることは、先ず、神様を認めようとしない罪深い自分を知ることから、自己中心と自我に生きる自分を見出すことにあります。キリストによって現わされた「神様の愛」、即ち、私たちの罪を赦し、受け入れて下さる「愛」を受け入れることによって「神様との交わり」を回復するのです。この交わりこそ「神との平和」であるのです。個々の心に神様を信じる信仰によって与えられる、交わり「平和」が、信じた人々の心にキリストの十字架の愛が植え付けられるのです。
第一に、心の中にキリストを迎えることによって、神様との交わりに入れられるのです。「キリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(5:15,16)その交わりはキリストに表された十字架の罪の贖い、神様の愛によります。この「愛」こそが土台となり、生きる道、生きる力、生きる希望、生きる喜びとなります。神様との関係の土台が人の心に築かれる事は、キリストを信じる人を神の家族として結び合わせる絆となるのです。
第二に、キリストを信じる人は、基本的にキリストの教え、キリストの道に生きることになり、同じ思い、同じ願い、同じ希望に生きる人であるのです。キリストの愛の道は平和であり、一致であるのです。聖書は「キリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であるのです。」(エフェソ2:18−19)人には生まれながらにして家族があり、家庭があります。そこには家族が慈しみ、育て、助け合う命,結血のつながりがあります。現代では本来の家族の絆が薄れてきているのです。ごく自然な営みの時代は、家族が助け合い、労わり、いつまでも絆を大切にしてきました。しかし、経済が豊かになり、福祉が充実し、仕事が多様化する中で人の心の絆が薄くなり、破壊され、失われるようになってきているのです。「金の切れ目が、縁の切れ目」と言うように、経済的な自立が、かえって人の心の絆を失わせるようになっ来ているのです。キリストに出会い、神様を受け入れ、信じ従う時、そこには人の本来の「心の絆」が生まれるのです。お互いが見知らぬ外国人であっても、ひと時の出会いの人と言えども、キリストを受け入れる人々の間には「もはや」問題ではなく「聖なる民に属する(聖徒たちと同じ国籍の者・口語訳)神の家族である。」(5:19)のです。そして、その「かなめ石はイエス・キリストご自身である」(5:20)と言うのです。それは「家族のかなめ石」であるのです。この世の社会、家族にどのような変化があったとしても、このかなめ石だけは変わることはないのです。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブル13:8)
第三に、ここで言っている「神の家族」とはキリストの教会を意味していることは明らかです。「そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。」(5:20―22)確かに「教会はキリストの体」である(エフェソ1:23)と言われていますが、それはキリストを中心にした「神の家族」であることを指しているのです。「聖なる民の神の家族」であるのです。それはまた、「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(5:22)神の家族は神の住まい、即ち、神様が臨在される家であるのです。教会は神の御心に生きる神の民の家なのです。その中心と基礎は「神の愛」による活けるキリストの教会であるのです。コロサイの信徒への手紙には教会のあるべき姿が示されています。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」(コロサイ3:12−17)キリストを救い主と信じ、神様を信じるクリスチャンは、家庭が教会であると自覚します。
旧約時代、神殿が建てられましたが、シナゴグ(礼拝する集会所)が地域に立てられるまでは、安息日の礼拝はそれぞれの家庭で守ったのでした。キリストを信じる家庭であることが本来の家庭があることになります。一人一人がキリストを信じる家庭の実現を祈らなければなりません。家庭の父親は家の牧師であり、体と心、魂を養う使命を委ねられているのです。母親は父親と共に家族の「絆のかなめ」であって、母の大きな愛で家族を支える使命を委ねられています。教会でキリストの言葉が語られ、感謝と賛美が捧げられて人を生かし、家庭が建て上げられるのです。よしんば家庭が失われ、家族がいなくなる時でも、キリストにあるところに「神の家族」の希望があるのです。

 

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