2012年 7月22日 礼拝メッセージ 

「変わらない神の言葉」
マタイによる福音書14章32−35節

政治の世界でマニフェストという言葉が使われ出して久しくなりますが、今の政況の混迷のなかでマニフェストが問題になっています。マニフェストとは本来、宣言、声明というような意味であるけれども、選挙では政党の公約という意味でもちいられています。政局と言うものは様々な要因で変化しますが、国家、国民の民生安定と国家の繁栄が実際に実現できるかどうから、どのような選択をするか決めることになります。しかし、どのような時代も政治がその約束を実践できるとは稀有なことであるのです。人々の人気を前提にするのですから当然といえば当然であるのです。人間の言葉は信頼することの中で「絆」が生まれ、その言葉が真実であることでこの世は成り立って行きます。言葉や約束が、守られないところには疑いと不信が生まれ、混乱と破壊に至ることになります。人の言葉は、時と共に変わります。ヘラクレイトスの言葉に「万物は流転する」という言葉があります。どんなものでも変化し、この世では変化しないものはないと言うのです。聖書は「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタイ24:35)と言っています。それは「万物は流転する。しかし、神の言葉は変わらない。」と言うことになります。文語訳では「天地は過ぎ行かん、されど、わが言葉は過ぎ往くことなし。」とありますようにすべてのものは“消滅”するということを意味しています。イエス様はマタイ24章の始めから、“この世の終末”について語っておられます。東京大学の地球物理学者であった竹内均教授(故人)もその著書「宇宙も終わる」の中で現実にこの地球も宇宙も終わりが来ると学的に指摘しています。この先生は小松左京の作品「日本沈没」の映画にも出演されていることで知られています。現在では科学の発達と共に温暖化現象や原子力発電所の増加の危険性が注目されています。多くの人々は地球はこのままでは終りが来るとおぼろに実感しているのです。宇宙の成り立ちから終りが来ることとはまだではありますが、終りが来ることは実感できるのです。よく考えると「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。」(コレヘト1:2)という聖書の言葉が真実になって来るのです。
先ず、イエス様の世界の終わりにはどの様なことが起こるかを指し示しておられるのです。その徴として「多くの人の愛が冷える」(マタイ24:12)ことです。愛が失われるところに信頼はなく、信頼が失われるところに愛はなく、猜疑心と不信が、憎しみと対立、「戦争が起こる」(:6)。「飢饉や地震が起こる」(:7)と言います。知恵と力のせめぎ合いの中で人間性は失われるのです。地球人口はやがて百億になり食糧難、水不足に襲われることは予測されています。世界の終わりの予測は極めて悲劇的であることが予測されます。その後においてキリストの再臨があると言われています。「わたし(キリスト)は思いがけない時に来る。」(:44)その時、新しい世界創造が始まるのです。
キリストは言われます。「天地は滅びるが。わたしの言葉は滅びない。」(:35)と。キリストを信じているわたしたちにとっては、現実の生活は決して楽観的に幸福と言われる理想は訪れないのです。一時的に、幸福感に浸れる時もそれは刹那的なものにすぎないと言っているのです。
第二に、不確かな世界に、真実に「確かで不変」なものがあるのです。「わたし(キリスト)の言葉は滅びない。」(:24)「変わらない」「過ぎ去らない」と言うのです。キリストの言葉は神様の「約束」であるのです。人の言葉は変わります。人の約束も変わります。しかし、いったん語られたことが変質することは神様の自己否定になるのです。「神は人ではないから、偽ることはない。人の子ではないから、悔いることはない。言われたことを、なされないことがあろうか。告げられたことを、成就されないことがあろうか。」(民24:19)と言われているのです。ですからイエス様を信じるときに、この世、世界の仕組み、時の流れ、出来事を通してその終末が語られているのです。正に、現実は悲観的な見方になります。しかし、キリストの言葉には希望があります。神様が、必ず、再生し、回復し、根本から新しい世界を創造されると言う約束であるのです。ですから、クリスチャンは現実は悲観的であるのですが、未来へは楽観的であると言えるのです。ですから、現実の生活の中で、キリストの言葉を信じるときに、主は共にいまして、その御心に生きることになります。「わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉のよって励まし合いなさい。」(テサロニケT4:17,18)「励まし合い、お互いの向上心に心がける。」(5:11)生活へと導かれるのです。
第三に、また、言うに及ばず、人の人生も終りがあるのです。自分の生涯が終わることはその人にとっては世界が終わることと同じ意味になります。人の生涯は、果てしなく空しく、儚いものであると言われ続けてきました。命には終わりがあると分っているのです。しかし、主イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハネ11:25)と約束されたのです。神様は、人を空しく創造されたのでなく、創造の基本は「神の愛」にあります。聖書には、神が万物を創造されて「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(創1:28)と世界の仕組みの根源に人に生きる仕組みを示されているのです。しかし、実際に人は真実の創造主である神から離れ、自己を中心に生きることによって、その互いの思いの主張によって憎しみと混乱と破壊が連鎖しているのです。神様から離れるときに存在の真実の自分を見失うことになるのです。だが、神様の創造の原理は「神の愛」にあるのです。この世の混乱と破壊、憎しみと対立は神様の「痛み」であるのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)この言葉、「世を愛された。」…一人も滅びないで「永遠の命を得るためである」と言うのです。有限な命を生きる人間にとって現実は空しく、儚いものであるのです。しかし、イエス様が言われたように「死んでも生きる。」永遠の命の自覚こそは神様が救いの道として備えて下さったのです。
見えない神様が、見えるようになる出来事を通して神様の愛を啓示して下さったのが、イエス・キリストの出来事であったのです。キリストによって表された神様の愛に人々が応答し、神様を忘れたどのような罪深い人をも罪を悔い改めるなら救われるという言葉にひかれる人々が、この方こそ真の神であると認めることに為政者が真意を理解できずに十字架に処刑する出来事が起こったのです。使徒パウロは「罪と何のかかわりもない方(キリスト)を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(コリントU5:21)この事は正に「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(コリントT1:18)この「十字架の言葉」こそ、聖書を一言で言い表している「神の言葉」であるのです。イエス・キリストの十字架の贖いの死を通して、復活の出来事が、永遠の命の内実が生かされているのです。この世はどのように変わり、この世での人生の終わりがきても、永遠の命の「神の約束(言葉)」は変わらないのです。そこに真実の人の希望と喜び、人生の目標があるのです。「わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。」(ロマ8:37口語訳)神の言葉は永遠に変わることがないのです。

 

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