2012年 8月5日 礼拝メッセージ 

「祈りの生活の祝福」
テサロニケの信徒への手紙T,5章16−22節

神様を心より信じているクリスチャンの願いは「肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。」(コリントU,5:9)
言いかえれば、この地上にいても、天国にいても、“主に喜ばれること”が願いであると言うのです。さらに、それはどこにいても、どんな時でも“主に喜ばれる”在り方、生き方でありたいという願いであるのです。そして使徒パウロは「神に喜ばれる」ことは「神の御心」、「神様の善」なのかを前提にしていることです。ですからクリスチャンの生活は「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」(エフェソ5:10)と勧めるのです。
そこでテサロニケの信徒への手紙Tの5章16,17,18)では「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことでも感謝しなさい。」これこそは「キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」と言うのです。人間には長い人生の日々には悲しみや苦しみ、戸惑い、悩みが付き物です。「喜び」は喜べることがあって初めて喜べるものであるのです。苦悩や悲惨も「いつも」の中にあるとすれば「いつも喜ぶ」ことは不自然であるのです。しかし、移ろいゆく日々の中で苦悩や悲惨の中でも希望がある時は苦悩の中でも希望がれば、そこには期待と意欲が生まれ、喜びがあるのです。状況を冷たく超越するのでなく、現実を超越しながらも、その最も深遠な「喜び」の深淵は「祈り」であるのです。
だからこそ「絶えず祈る」と言う言葉が、「どんなことにも感謝する」という、いや、「感謝できる」可能性が約束されているのです。ここでは「祈り」が中心であるのです。「絶えず」「どんなこと」でも祈ることはまた、一時も休みなく連続して祈ることを意味しているのではないのです。「絶えず祈る」こと、即ち、「絶えず」途切れなく祈り続けることなどは現実の生活では出来ない表現であることに気が付きます。かって、学生時代に派遣教会で一人の若い熱心な信者さんがいたのです。その人は、うつろな顔で何時もぼんやりしているのでどうしたのですか、と聞くと聖書に「絶えず、目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフェソ6:18)と書いてあるので“眠らずにお祈りしています”と言うのです。聖書を字句通りに読むことは原則ですが、象徴的に記されているように読まなければ現実離れしてしまうことがあるのです。「絶えず祈る」と言うことは、「絶えず」「いつも」「一瞬たりとも間をおくことがなく」祈りに生きること、「神様の御心」に生きることにほかならないのです。「神様の御心」即ち、「神に喜ばれる日々」を歩むことこそは、正に、「祈りの日々」であるのです。ある注解書には「言葉なくして神に向けられていると言うことこそ、正に、祈りの最も深い形である」とありました。働きながら、学びながら、共に、主がおいで下さる、臨在を実感する日々を意味しているのです。
祈りがあるところに、神様の臨在の告白がるのです。祈りは信仰の告白であり、生きた信仰のあかしであるのです。
もし、祈らないクリスチャンがいたら、名前だけの形式的な信仰であるのです。信仰は神様との交わりの中で「祈り」として表されます。救われたクリスチャンは祈りによって霊的な命が通うようになるのです。霊的命が信仰者の命となり、成長の力となるのです。祈りなくしてクリスチャン生活の祝福と成長はあり得ないのです。祈りを通して、神様の愛と恵みを実感し、体験的にキリストによって示された神様の恵みを悟るときに神様二ある祝福、変わらない恵み、永遠の命を体得するのでです。そこに「どんなことにも感謝できる」人に変えられるのです。「どんなこと」「どんな時」にも感謝できることは不可能であるのです。しかし、活ける神様が、共においで下さる現実は、「どんなこと」事態にあっても平安を持って対処できることを約束されているのです。使徒パウロは言います「わたしたちを愛して下さったかた(キリスト)によって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。」(ロマ8:37口語訳)「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(8:32)。「どんなことにも感謝しなさい。」と言われても、できない現実の私たちを、信仰の祈りは「勝ち得て余りある」祝福と勝利に至らせて下さるのです。そこに「どんな時にも喜べる」「どのようなことにも感謝できる」ことになる約束が裏付けられているのです。
第一に、クリスチャンは天地創造の神様を信じているのです。創世記の創造の啓示は、人を生きることが出来るように創造の秩序を整えておられるという事実です。生きることは神様の恵みであることを信仰によって知り、悟る時、生かされている自分を発見し、愛されている自分を自覚できるのです。そこに感謝の根源があります。キリストのよって父なる神様との交わりをを回復し、神様の恵みに生かされている創造の秩序を悟るときにこそ、どんな時のも「感謝できる」感謝させていただける恵みに預かるのです。神様との交わり、即ち祈りこそが命の源になって感謝を自覚させてくれるのです。クリスチャンの生活は祈りの生活であることになります。
第二に、だからこそ、日々の祈りの生活がクリスチャンの基礎となるのです。祈りの祝福は「喜び」となります。喜びは賛美でもあるのです。祈りと感謝と喜びは賛美となり、そこには礼拝が生まれるのです。「いつも神様を礼拝しなさい」と言うことは正に、生活そのものが礼拝であると言うことになります。神様の御心に生きることこそ「礼拝」出るのです。朝の目覚めの祈りに始まり、朝食の祈り、昼食の祈り、一日の感謝の祈り、夕食の祈り、就寝の祈りを持って一日の祈りの生活が閉じられ、また、新しい祈りの生活を迎えるのです。私たちは「デボーション」の時間を持ちます。最近は「デボーション」と言う言葉も使いなれてきていますが、その意味は献身,帰依、祈り、信心などを意味します。「日々の御言葉」のテキストで御言葉を瞑想し、祈りから一日の信仰生活を始めます。「喜び」「祈り」「感謝」はイエス・キリストにあって神が、一人一人に望んでおられることであるのです。(5:18)
第三に、「絶えず祈る」ことは命の源であるのです。だから、「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:32,33)神様は必要なものはご存じであると言うのです。何よりも神様の御心を求めなさいと勧めるのです。神の神の国とは神様の御心であるのです。長い月日には苦しみや悲しみにくれる時があります。私の卒業した聖書学校は祈りの学校でした。アルバイトは原則禁止でした。家からも、出身教会からも送金援助を頂けない事情にありました。先ず、毎月の必要なお金がいります。校費は100%給費生でした。三食と月謝は保障されていました。だから毎月の必要な最小限の小遣いはいるのです。或る時、歯磨きが変えなくて同級生のをもらっていました。しかし、その為に真剣に祈ったのです。そうしたら二三日たって神召教会の婦人会の方が「歯磨き」を指しいrてくれたのです。こちらから請求したのでなく、神様に祈ったのです。お願いしたのでもありません。ひたすら祈った答えであったのです。毎月、15ドル(5千円当時)が毎月アメリカのクリスチャンの方から送られてきました。神学生は誰から送られた来ているのか知らされません。神様が送って下さると言うのです。そして、校長がある時、部屋に読んで「君のために来ずかいを送ってきている人がある」と言って2千円毎月くれるようになりました。私は、祈れば答えられると言う、生きた信仰の経験をしたのです。祈りは不思議な導きを開くのです。祈りを学び、祈りを通して神様が生きておられることを学習したのです。どんなことでも祈るのです。そしてその喜びと感謝は、神様の愛と恵みによることを実感するのです。祈りのある生活は祝福の恵みの賜物であるのです。 困惑と悲惨、戸惑いと絶望こそは、祈りのチャンスであり、祝福の門出であるのです。祈るは素晴らしい。
主イエスは「気を落とさずに祈ることを教えられた」(ルカ18:1)


 

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