2012年 8月12日 礼拝メッセージ 

「平和の実現と祈り」
ローマの信徒への手紙15章13節

平和の祭典、オリンピックが開かれています。全世界の204ヶ国から1万1千人の人が集まって国の名誉にかけて競技を繰り広げる情景が毎日毎日、テレビ映像を通してライブで、繰り返し放映されています。華やかで趣向を凝らした演出に平和を実感しない人はいないのではないだろうか。競技が進み、勝敗でメダルが授与される。金や銀、銅のメダルを取る時の自国の選手の誇らしさを、国を挙げて熱狂する。勝った時の興奮、負けた時の空しさは選手も応援する国民も同じである。しかし、参加国204ヶ国の内、いまだメダルを一度も取っていない国が80ヶ国あると言うことである。オリンピックは参加することに意義があると言うことがうなずける。どうせ負けるなら参加しに方がいいという国もあるという。一方、国民の体格や体力を選定して種目を選び、メダル取得に報償を保証し、年金を保証、兵役の義務まで免状するという国もある。しかし、おかしなものでグランドもろくにない野山でカモシカやチータと競争するとさえ言われる国がマラソンで優勝することもある。
ボクシングも射撃もアッチェリー、乗馬も人類の戦争の残照である。体操の競技などを見ていると忍者の合理化に見える。人間の闘争心、言換えれば人類の戦争を合理化し、精神性を昇華したのがオリンピックに見えるのです。矛盾をはらみながらも世界の国々が一つ所に集まり、競技を通して交流することは平和を願い、共存する夢であるのです。
人間の現実はどのような時も、闘争抜きには生きて行けないのです。競争が争いになり、理性を失って自己要求がぶつかり合う時、人間性を失い破壊と殺戮、略奪と混乱、悲劇と絶望があるだけになります。
8月6日に広島、9日に長崎に人類初めての原子爆弾が投下され両市合わせて約32万人が一瞬のうちに焼死したのです。(1945年、広島市人口35万人爆死約17万人、長崎市人口24万人約15万人爆死)この出来事が、第二次世界大戦を終結させたと言われています。明治以来、文明開化、近代化が、富国強兵の国策となり、ヨーロッパ諸国の植民地拡大、争奪紛争の垣間に入り込む中で資源を求め、領土拡大の悲劇を繰り返すことになったのです。日露戦争の勝利が、逆に、戦争動向を煽る結果となり、軍部の台頭を増長し、大陸侵略に歯止めがかからなくなる結果が、日米開戦となり、陸軍の“1億総玉砕”の無謀な錯綜も、原爆投下の無残な最後で終わるのです。沖縄ではすでに上陸戦で県民約33万人のうち18万人が死んだと言われている。原爆投下の終止符がなければさらに100万人の死者が出たと推定され、原爆投下の意義をアメリカは理由付けするきらいもあるのです。この悲劇は、当初より物量で敗北を予測しながら、会戦に踏み切る悲劇があったことになります。政治の無謀な選択の悲劇であると言えるのです。政治は人間の支配欲の闘争心の凝縮した形で連綿と歴史を彩ってきました。傲慢な権力がぶつかり合う限り、戦争はなくならないと言えます。
オリンピックでその闘争を昇華しているように現実の国と国、人と人の闘争が、平和になるのはいつになるのでしょうか。イザヤ書に記された究極の平和の構図を知る時、その意味することが何であるかを知りたくならざるを得ないと思うのです。「正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる。狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。その日が来れば、エッサイの根は、すべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。」(イザヤ11:6−10)この預言書イザヤ書の意味するところは何であろうか。平和の神が、救い主として来られる時に出現する神の国の予告であるのです。イザヤ書の11章の1節から5節には小さなダビデの家、エッサイの家系から最高位に呼び出されたように、その家系から再び、第二のダビデが救い主として現れるであろうと言う予告なのです。現実の世界は人間の罪によって徹底的にゆがめられと理解するのです。しかし、神様の霊と人の霊が一つになる時、神様の御心がそこに実現すると言うのです。ゆがめられた罪の現実は、自力では自己を変えられない罪人の世界であるのです。罪の苦悩と混乱は、罪を自覚して裁きの後に与えられる恩恵が人を新しく造り替えて、その時、初めて神の御心に生きる者とされると告げているのです。
私たちが、第一に学ぶべきは、ローマ書15章の13節に記されている「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」という言葉を見ると、罪深い人間の争いから、解決の希望こそは、イエス・キリストであるのです。「希望の源」それは救い、解決、「平和の実現」は、イエス・キリストが現わして下さった「救いの道」による「希望」にほかならないのです。それはイエス・キリストを信じる「信仰」に始まるのです。イエス・キリストの「十字架の言葉」(コリントT1:18)を信じることになるのです。キリストの十字架の出来事こそ人間の根源的な闘争と破壊の罪深い根を断ち切り、神の平和を取り戻す道であるのです。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。 それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。」(エフェソ214−17)平和は理解と謝罪、赦しと和解が、キリストの十字架に表された「神お愛」が決定的な平和の実現の道となるのです。其れこそが「希望の源」であるのです。「希望」は「信仰」によって力となるのです。自分の意志には限界があります。正に、神の力「聖霊の力」よってそれは持続する時、実現する確信を得るのです。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブル11:1)
第二に、平和を待ち望むことは、クリスチャンにとって「神の国」の実現を待ち望むことになります。未だに不完全な現実に、救い主、メシヤ来臨の2重の予告をしています。キリストの十字架の出来ごとによって、「平和の希望」の鍵が渡されました。心するべきことは「御子の内にいつもとどまりなさい。」と言うことであってイエスを信じる信仰を堅く持ちなさいと勧めているおです。「そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。」(Tヨハネ2:28)キリストがの再臨の時、真実な意味での「神の国」が実現されることに希望を持つことです。日々祈る、主の祈り「御国をきたらせたまえ」それこそは日々、キリストの約束に従い、今現実の中で「神の国」を実現する人にして下さいと言う日々の祈りが、神共にいます恵みを告げんとすることになるのです。そして、いつか主の来られる時m完全な意味での「神の国」が約束されえいることに慰めと励まし、「平和を実現する人々は幸いである。」(マタイ5:9)と言うことを証しようではないか。
われわれお教会は8月15日終戦記念日を「信仰の自由の日」として太平洋戦争に至る戦争の悲劇が、真実の人間の尊厳を尊ぶ「信仰の自由」に意味をしっかりと踏まえて「平和」の意味を理解し「平和を実現する」神の子でありましょう。

 

 ページのトップへ
  
2012年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ