2012年 8月26日 礼拝メッセージ 

「ビジョンを育てる不思議な命」
マルコによる福音書4章26-32節

毎日の生活の中では思わないことが起こります。人生は喜怒哀楽の連続であるとも言います。喜びに始まる誕生は迎える人達が喜び、生まれて来る人は泣くのです。人生に終わりがあります。死ぬ人は安らかに眠り、見送る人は泣くのです。しかし、現実の生活は喜びよりも悲しみが多く、楽しい時より辛い時が多いものです。穏やかに過ごすより、何かにつけ怒ることが多いのです。静かに過ごすよりも、イライラする時の方が多いのです。聖書はこのように言います。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」(ロマ14:17)クリスチャンは神の国に生きる人であると言えます。「神の国」は「飲み食いではなく」と言う時、極めて現実と遊離しているように思われてしまいがちです。食べることは生きることであるのです。食べるために働き、食べることで争そうのです。しかし、クリスチャンの一切の生活の基本は「神の国」であって食べることとは別次元のことであるのです。主が治めたもう「神の国」であって、その本質は神様の義と平和、聖霊の喜びであるのです。マタイによる福音書でも主イエスは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6;33)すべてが保障されるところには「お思い煩う」ことがないと約束されています。「神の義」を求める「義」とはクリスチャンの生活に一貫している神様と人、人と人との間の正しい関係であるのです。平和は、神様との和らぎを土台にした和らぎであり、その平和によって信じる人々が和らぐことになります。そこに聖霊の臨在による喜び、生活に豊かに実る約束があるのです。この平和に裏付けられてこそ衣食が備えられることになるのです。「衣食足って礼節を知る」ということは出発点が違うのです。衣食があって生活が破壊されるのでは真実の幸せや安らぎはないのです。心の平和と愛による生活の希望が生きる可能性を生みます。トルストイは「人は食べるために生きるのでなく、生きるために食べるのである」と言っています。
マルコの福音書4章26節には「神の国とはこのようなものである」と教えています。「神の国」に生きることは、キリストにあって神様を信じる、信頼して生きることにほかなりません。その生き方の基本は「ゆだねる」ことにあるのです。イエス様はここで「種まき」の譬を語られるのです。土に種を蒔く、それは時として成長する。しかし、人はどうしてそうなるのか「人は知らない」と言うのです。この「知らない」は気付かないということです。冒頭に「夜昼、寝起きしているうちに」とありますが、日本的な言葉の習慣からすれば、昼夜ということになります。働いて、寝て休んでになるのです。ここではユダヤの国では夕方から一日が始まります。日が暮れる時が新しい日の始まりであるのです。確かに、安息日は土曜の夜が安息日明けに成り夕方になり日が落ちると一斉に街はにぎわいを取り戻し、生活を取り戻すのです。正確には深夜12時が日付の時になるのですが、日本では日が明けて一日が始まるのです。言換えれば眠りに着く時、人は“何も知らない”で眠る。知らない時に「根」付いて育つ、正に、「知らない」(:27)内に芽を出し、茎を伸ばして成長するのです。更に、「ひとりでに」(:28)実を結ばせるというのです。この言葉は聖書の言語によれば「オウトマティー」(αύτομάτη)という表現になっています。これは日本語になっている言葉で「オートメイション・自動」と言うことになります。今は便利な時代であって、なんでもオートメイションでエレベーターを始め、自動車でもオートクルージングをセットすれば定速で、どのような坂でも等速になり、アクセルも踏まずに走るのです。暗くなればいつの間にかライトは付く、ナビをセットすれば目的地に間違いなく案内し、交差点では町目名までアナウンスがあるのです。これが今の自動車です。わたしはその仕組みを知りません。言われるまま快適な運転をするのです。この機能は埋め込まれたセンサーでコントロールするのです。誰かが造ったのです。言われたようにすれば間違いなく運転でき、目的地に着けるのです。それと同じように、日が暮れると寝る。やがて朝が来る。起きて働く。日は必ず「ひとりで」に出ると思っています。「人は知らない」のです。人は理解できないのです。しかし、確実に、寝ていても日が昇るのです。神様の恵みは「必然的」に成長し、実を結ぶのです。先ず、神様を信じる人は「ゆだねる」ことにあるのです。寝ることは、正に、主に「ゆだねる」ことにあるのです。そこから主の安心が生まれることを教えているのです。
第二に、学ぶことは、マルコ4章の31節にあるように「からしだ種」にあるのです。からしの種は1,5mの球状で極めて小さい。成長すると5メートルに及ぶと言われる。「神の国」の恵みはどのように現実が小さく見えたとしても、形の大きさだけでなくものごとの性質の困難さをも表しているのです。試練や困難、逆境や哀切などその困難性が大きければ、解決の希望は小さくなります。どのように小さくても、主を信頼する信仰は「信じゆだねる」時に、主は必ず、その一つの種の信仰の命が大きく成長することを約束しているのです。
第三に、信仰に対して「あきらめ」は対立する言葉であるのです。信仰は希望であるのです。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブル11:1)信仰とは、希望している事を確信することです。希望は未来の事実を望むことにあります。見えない未来の事実を確信することにあるのです。「あきらめ」は希望の喪失といえます。言換えれば絶望であるといえます。「絶望は死」であるとキエルケゴールは定義しています。「あきらめが肝心」とよく言われますが、それは宿命論に縛られているのです。物事は成るようにしかならない。世の流れに逆らえないと思いこむ生き方であるのです。そこには「あきらめ」しかないのです。しかし、聖書は「自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」(ヘブル10:35)と言うのです。希望の実現は未来のことです。からし種が小さな種から、強大に成長するには「待つ」ことが求められるのです。その「待つ」こそは忍耐であるのです。「忍耐」が必要であると指摘しています。マルコ伝のテキストには神様の恵みに「ゆだねる」ことが強調されています。その約束の希望の裏には「忍耐」が必要であるのです。その忍耐こそ、育つ「からし」の茎や葉が育つには「日」が昇る事や、手入れが求められるのです。「手入れ」とは、正に、水をやり、肥料を添えて見守ることを指しているのです。希望への祈りと奉仕がやがて希望の実現となるのです。
最後に、からし種は大きく成長し、大きく枝をのばし、鳥が巣をつくれるようにまでなると記しています。「成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」(マルコ4:32)これは正に、信仰の種が成長し、鳥が巣を作って住まいとする。即ち、多くの人々が信仰の恵みに共によくする姿を示しているのです。「神の国」の恵みを共有する姿を示しているのです。神様の臨在のあるところ、キリストによって現わされた神様の愛を生きる群れ、キリストの教会を意味するのです。信仰の群れは神様の愛を生き、神の国に生き、神の国を広げる使命に生きる群れであるのです。

 

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