2012年 9月2日 礼拝メッセージ 

「キリスト信仰と愛の力」
エフェソの信徒への手紙3章14-19節

イエス・キリストを信じることは、真実の神様のを知ることであるのです。それは、信じて知ることであるのです。神様を知ることは理解するのでなく、信じることによって知ることを意味します。自然の物事の仕組み、命の根源は究めつくすことが出来るのではありません。自然の営みは機械的に決められた原則で存在する、ものです。旧約聖書のコヘレト(伝道の書)3章11節に「神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」と言われているようにすべての存在は、神様の創造によるのであると指摘しているのです。
エフェソ書3章の15節には「御父から、天と地にあるすべての家族がその名をあたえられています。」と言っています。この「家族」は聖書の言葉では
「家族」パトリア(πατριά)《原語》であって「氏族」を意味する言葉であるのです。地上であれ天であれ様々な人たちを中心にすべての被造物は、創造者、即ち神様に由来することを示しているのです。見極め難い、自然の仕組みには秩序と原則があることは誰も否定できません。偶然の連続は混乱と無秩序です。自然の営みには原則がります。それを否定することは出来ません。人の理解を越えた創造の秩序こそ創造主なる神様の業であるのです。
創造の基本的な采配を人に任せられたのです。「地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(創1:29)人は神に似せて造られたのでした。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」(創1;27)それは、支配できる能力、知性と創造の喜びを授けられたのでした。ゆだねられた世界を人は知性と理性で自然の仕組みを見極め文明を築き、文化を作り上げ続けています。それは、人に与えられた創造の喜びであり、幸せの追求でもありました。しかし、人は、神を忘れ、神様の最も大切な神様に喜ばれる原則を失ない、知性の発達と共にその傲慢は神様を否定する道を歩んだのです。科学や機械文明、高度の医療科学は人を幸せにすると共に物質の奴隷となり果ててしまったのです。分かることしか信じることのできない現実は戦争と争い、殺戮(さつりく)と破壊の歴史となっています。戦争のために科学が開発され、それを利用して生活を豊かにする図式があるのです。
神様から離れた人間の悲劇です。そして、死で終わるのです。最も大切な神様の御心は何かが、忘れられているのです。「神は愛である」(ヨハネⅠ4:8)という神様の本質を、創造の原理としておられることが失われているのです。神様を否定する。神様を忘れることは「神の愛」を見失うことにあほかならないのです。神に似せられた人間とは、何を意味するのでしょうか。それは「人は愛で生きる」ということにはかなりません。神様は創造の原理はご自分の愛を示すことであるのです。創世記1章には天地創造の描写が描かれていますが、森羅万象を創造し、最後に、人を創造されたと記録しています。言換えれば、人が生きる環境を整えてその完成の中で人が住むようになるのです。塑造の原理は愛の原理であるのです。言換えれば、創造は神様の愛を証しであるのです。人は、生まれて空気を呼吸し、母から乳を授けられ、水を飲み、土から育つ食物で生きることになるのです。人は造られたものから受けるのです。造られたものから生活の必要なものを生みだすのです。
神様の愛を見失い、知性と理性を誇り、神様の恵みを否定して、自己中心をむき出して欲望の奴隷と化しているのが現実の世界であるのです。神様は愛であるゆえに、心を痛め、人の幸を願い、御子イエス・キリストを世に遣わされたのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世(あなた)を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)キリストは、人の根本的な罪深い心を救うために、見失った神様の愛をお示しになったのです。神様の救いとは、人が、「神様の愛」を取り戻し、愛に生きるようになるためであるのです。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネⅠ4:8,9)
クリスチャンの信仰は成長しなければなりません。信仰の成長は「キリストの愛」の成長であるのです。エフェソ3章17節では、キリストの愛に根差し、しっかりと立ち、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解し、「知識を超える、キリストの愛」を知るようになることを勧めるのです。
この「知識を超える愛」(:19)を知ることが大切です。知識を超える
とは人の思いや経験、知性や理性では理解しえない「神の愛」です。キリストに表された神様の愛は、「犠牲の愛」であるのです。本来的に、日本の風俗では「触らぬ神にさわりなし」と言います。神は、恐ろしい神、裁きの神、怒りの神をいうふうに考えるのです。キリストによって示された真実の神は「愛なる神」であるのです。人の罪を痛み、人の咎を苦しみ、その罪と咎のために嘆き苦しみ、悲しむ人解決に導き、救い、解放する「真実の愛なる神」であるのです。人に仕え、人の為に犠牲となる、愛なる神であるのです。それがキリストに表された神であるのです。(マルコ10:45)
キリストの愛は、「心の内にキリストを住まわせ」(エフェソ3:17)ることによって根付くのです。それは、キリストを「信じる」信仰によって受け入れることです。信仰のないところにキリストの愛は根付かないのです。その成長は「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、」(;16)「霊」と「力」によって強められることが必要であるのです。「豊かな栄光」はキリストにおいて完全な贖罪のによって、完全な救いをを成し遂げて下さった恵みによって与えられるキリストによって現わされた神の人格、「神の霊」、その「命」「力」が、「神の満ち溢れる豊かのすべてにあずかり、満ち溢れる」(3:19)ようになるのです。
キリストの愛は命です。キリストを信じる人の“人となり”即ち、人柄、よい香りとなるのです。「わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。」(コリントⅡ2:15)キリストを信じることはキリストの愛にいきて証明されます。キリストの愛は、神に愛されている自覚に生きるのです。神を愛することは、神の喜びに生きるのです。「主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。」(エフェソ5:10)第一に、キリストの愛は謙遜の愛です。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」(フィリピ2:3、4)第二に、人を生かす愛です。第三に、忍耐です。第四に、優しさです。第五に、勇気です。いつもキリストを思い、キリストを見上げてこそキリストの愛の花が咲き、実が実るのです。キリストの十字架を心にとどめ、十字架に表された神の愛を生きようではありませんか。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
(ヨハネ15:12)

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