2012年 9月9日 礼拝メッセージ 

「人生を切り開く道」
ヨハネによる福音書9章1−12節

オリンピックが終わり、パラリンピックが開かれました。健常者の能力を引き出す極限の競技は白熱したものであり、メダルの数に勝る感動的な時でした。今、行われている障害のある人々の競技はまったく違った感動のゲームであると言えます。足がない人が走る。視力のない人の競技、両手がない人の水泳、バスケット、テニス、競技する選手には障害を通してその人の人生のストーリーがあります。
 私は、たまたまテレビニュースで中村智太郎という選手の水泳の100メートル競走を見た。感動した! 両腕がないのである。私は毎週2回、健康の維持のためにプールに行く。高齢であるので歩くのが主であるが、平泳ぎで何百メートルかを泳ぐ。自分はのろのろと体力維持のために泳ぐことを思いながら、中村選手は100メートル1分22秒で銀メダルを獲得した姿に涙が出るほどの感動が込み上げてきた。中村選手は28歳、兵庫県生まれの和歌山県育ちである。先天性両上肢欠損、両腕がないのである。私には3人の子供がある。どの子が生まれる時にも、五体健全であってほしいと祈るものです。生まれて五体健全であることに親は安心するのです。中村村選手の御両親のその時の悲嘆と苦悩を思う時、親としての気持ちは察してあまりあるものがあります。4歳にして「溺れないように」と水泳を勧めることが、28歳にしてロンドンでの銀メタルに輝いたのです。彼は、すでにアテネで銅メダルを得ているし、全日本、世界選手権でも数々の成果を挙げてきているのです。ターンをする時は頭をぶつけてターンをするのだそうですが、想像もできない痛みをこらえての競技であるのです。
パラリンピックは人間のあらゆる身体的な障害を克服する大きな希望であり、人間の可能性への言葉にならない感動であるのです。中村選手はスマホを足の指で操作する、食事は足の指を用いて箸で食べるのを映像で見る時、泳ぐ彼の姿だけでなく日々の中での想像をはるかに超えた努力と自己訓練が見えるのです。彼はDiversey椛蜊緕x店という会社で働く立派な社会人です。
人は、人生の中で様々な試練や困難にでくわす事があります。生まれた時からの障害、様々な事故による試練、自分が招く試練、世の流れに巻き込まれた不遇、人それぞれにドラマがあるのです。しかし、人は出会う試練を克服して「人生を切り開く道」を見つけて行かなければなりません。
ヨハネによる福音書9章には、一人の「生まれつき盲人の人」の癒しの記録が記されています。この人は毎日、道の片隅に座って通りすがりの人々に物乞いをしていたのです。弟子たちがイエス様に「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」(9:2))と尋ねるのでした。生まれつきや、事故など思いもよらない原因で不幸になった時は、何かの原因があると考えるのは洋の東西を問わず、昔も今も変わらないようです。日本でも何かの不幸にあったり、苦しみがあると「何かの祟り」ではないかと言うことがよくあります。先祖の霊を弔わない「罰」であるとか「祟り」であると言うのです。ユダヤでもそのような時には、親の罪が子に祟る。また本人が何か悪いことをしたのではないかというような目で見る習慣となっていたのです。悪い原因が悪い結果を生むというのです。神様の前に罪を犯しているからそのような不幸や悲劇が起こると考えるのであって、反対に良い行いをしていればそのようにはならないというように考えるのでした。ですから、当然、障害や不幸は罪として神様の裁きであり、不信仰の結果であるということになり、偏見と侮蔑を持って見下げることになります。イエス様はハッキリと「本人の罪でもなく、親の罪でもない。神様の業が現れるためである。」と言われるのです。「神の業が現れるため」とは神様の行為、なさること、それは神様の行為は意志、思いが形となり行動となることであり、神様の臨在と栄光の輝きであるのです。不幸や、逆境を神様は決して見捨てられる方ではないのです。そこに人がいる、そこに悲惨と苦悩がある。もはや、神様がおいでにならない、神様に見捨てられた裁きの闇にあるという絶望に対して、「神の業の表れ」はその苦悩の中に希望と打開の道を備えて下さる約束があるのです。キリストによって明示されている神様は「愛なる神」であるのです。
イエス様は、その後、「唾で泥を練り、目に塗りつけて、シロアムの池に行って洗いなさい」と言われるのです。この奇異なイエス様の行為をこの人は素直に受け入れて従い、池に行って洗うと不思議なことに視力が回復したのです。「見えた!!」喜びと驚きの歓声の声を挙げました。しかし、それを見ていた多くの人の反応は、喜びでなく、疑問と批判でした。それは、どうして見えたのか。神が、それを許されるのであろうか?と言うものでした。ユダヤではモーセの十戒を中心にして律法を更に解釈してミッシュナと言われる戒律があって生活で守るようになっていたのです。それは神様の律法であって絶対的な権威を持っていました。当時の規定によれば「人を治療する」ことは安息日にしてはならない「働き」として定められていたのでした。規定を破る者は神から来た人ではない、それは罪のある人間が、こんな“しるし”を行えるのか、という批判であり中傷であったのです。盲人が癒され、見えるようになったという劇的な不思議を喜びと感動で満たされるどころでなく、人々の中傷と批判の対象となったのです。(9:13―23)癒やされた人の両親までも責められて恐怖心を持ったのでした。
イエス様は、ハッキリと言われています。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」(マルコ2:27)ここにイエス様が示されるのは、人間が生きるうえでの神様の根本的で、中心的な御心は「愛」であるのです。全ての存在と命の根源の創造主である神様は、愛であるのです。父として被造物を生かす力であり命であるのです。その力と命こそは「神様の愛」なのです。生まれながら盲目で生まれた人は、そのままで、誰が何を言うとも、神に愛されている存在であることを物語っているのです。イエス様は、唾で泥を捏ね、その盲人の目に塗られたのです。それが何を意味するのかは聖書は記録していません。盲人は見えない目でそれを感じながら、それを受け入れたのです。弟子とイエス様の問答を聴きながら、イエス様こそ私に何かをして下さる方であると推察したのです。「神様のわざが私に現わされるため」にと言うことこそ、期待できる言葉であったのです。好意を持って下さる方、優しく、認めて下さる方、なんとかして下さる方として見えない目の中にイエス様が映ったのでした。中村智太郎さんがもの心がつく頃から水泳に慣れさせる姿は、親の愛であるのです。手がない、腕がないわが子が、一人で生きていく姿を思い、足でお箸を持って食事をする訓練をしたのです。希望を捨てないでこの世の人々と共に自立する希望を与えたのです。彼を見て人が感動し、反省し、奮起させられるのです。神様は、どんな人にも、その人生を開き、可能性を与えて下さることを信じようではありませんか。
第二に、この盲人の回復の出来事は、愛の試みの時でもあるのです。人間性の成長の尺度は、その人の愛の成長によって推し量れものであるのです。或る時、阪神電車に乗っている時、杖をついている盲目の男の方がいました。西宮で降りようとするので手を取って電車の出口を案内してあげました。大勢の人がいっぺんに降りるので足元が分からないのです。改札を教えてあげると「有難うございました」と嬉しそうに礼を言って行かれました。障害のある人にとっては誰かの手を必要とする時があるのです。その時、そこにいる人は手伝うこと、助けることのテストを受けていることになるのです。共に生きる親切が試されるのです。人であるのか、ないのかが試されているとも言えます。いい換えれば、障害者は健常者の宝であるのです。思いやる心、同情する心、愛する心が人間性の中心に神様は人を創造されているのです。「愛あるところに神様がおられる」(ヨハネT、4;12)生まれながらの盲人の人を愛し、思いやり、理解し、イエス様は、孤独なこの人の根本的な解決と癒しと、生きる希望を与えられたのです。「神は愛なり」(4;8)。

 

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