2012年 9月16日 礼拝メッセージ 

「国籍は天にあり」
フィリピ3章17−21節

 二年に一度、カナダからダパーさん家族が、やってきて1週間ぐらい滞在します。旅行の目的は日本での永住権を更新するためなのです。教会では久しぶりの再会を何時も喜び、神様の家族の交わりを喜ぶのです。ダパーさんはケニアの人でお父さんは30代で室蘭工業大学の大学院に入学したのでした。ドクターの学位を取得して、尼崎の住友工業に入社出来て、尼崎に家族と共に来ました。奥さんのドリスも子供たちも敬虔で熱心なクリスチャンでした。ダパーさんもドリスも子供達も日本語が上手でした。教会では色々な友逹を教会に誘い、いい証をして多くの方を導きました。しかし、現実の生活では小学生に娘が学校で差別を受けるようになりました。ダパーさんは職場でも数々の業績を残すたびにねたみと偏見をもたれて苦しみました。ドリスは或る時、アルバイトをしようとしてスーパーの面接を受けに行った時に「あなたのような黒い手で品物を出したらお客が嫌がる」と言われ断られ、大変なショックを受けるのです。これが大きな心の傷となってカナダに行くことになったのです。ダパーさん達は本当に家族のように教会では親しく交わったのです。勿論、多くの子供たちは学校で良い友達になりました。とうとう出発の時が来ました。JR尼崎の駅から空港行きのバス停にみんな見送りに集まりました。長女のデボラの中学生の同級生は授業を休みにしてもらってクラスがみんなで見送りに来たのです。ダパーさん達は日本が大好きです。永住権を持ち続る為に今も日本に来ます。そしてデボラは日本で働きたいと言う願いを持っています。
 ダパーさん達との出会いで「国籍」を深く考えました。外国へ旅行に行く時は国の発行する「パスポート」と入獄する国の「ビザ」が必要です。「ビザ」をもらうのにお金を要求する国もあり、ない国もあります。かって、イスラエルに行った時、テルアビブの空港で2時間ぐらい私、一人の手続きで待たされたことがあります。丁度、赤軍派の乱射事件の後に行ったので、私の「顔」が容疑者に似ていたのでした。この時つくづく「国」を自覚したことはありません。
 外国に行く時には「国籍」を自覚するものです。聖書は「わたしたちの本国は天にあります。」(フィリピ3:20)と記しています。口語訳では「国籍は天にある」となっていますが、今日では複数の国籍を持っていることから「本国」の方が、ただ一つの国を意味することになるのですからこの国籍のほかにはありえないことを指しているのです。国籍、本国が天にあると言うのです。日本国籍を持ちながら、実は、本国は天にあるのです。それがキリストを信じるクリスチャンの生きる土台であるのです。
 人の生涯は旅であると言います。徳川家康の有名な言葉に「人の一生は重きを負うて遠き道を行くがごとし」と言うのがあります。波爛万丈の戦国時代、戦国武将として生き残り天下人になり権力の座に着いたとしても、「重き荷」を負い続けて旅をする「孤独」と「遠い道」果てしなく、あてどなき道を行く「虚しさ」を言っているのです。人生の旅路の果ては「死」であるのでしょうか。「死」で終わる人生は空しく、孤独、儚いものであるのです。
 イエス様は「「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。(ヨハネ11:25,26)と言われています。決して終わりでなく、新しい出発であるのです。キリストの十字架の死は、真実の神様の愛、神、そのお方を示すために全人類の罪の犠牲になられたことを示すものです。そして生前、約束された如くに事実、死から甦り、人の人生は「死」で終わるのでなく、甦り、永遠の命、神の御国に生きることを約束さえたのです。だから聖書は「私たちの本国(国籍)は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを私たちは待っています。」(フィリピ3:20)と言っています。この地上で様々な国があり,人種があっても、それは永遠の国の仮の住まいであると言えます。人種で差別し、貧富で人をはかり、位で人を見下げ、能力で人を見下し、障害者を偏見で見のです。そこでは自己の欲望と自己主張が、弱いものを制圧し、略奪する罪深い不幸の現実があるのです。
 しかし、キリストを信じ、神の子とされ天の国籍に生かされる時、永遠の安らぎが約束されているのです。天に送った家族を偲び、キリストに会って結ばれた家族の喜び、キリストにある神様の恵みを分かち合い、キリストにある真実の神の国の幸せを家に築こうではありませんか。

 

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