2012年 9月23日 礼拝メッセージ 

「生きた信仰と神の国」
ルカによる福音書17章20−30節

 去る17日に小川晃義兄が召された。告別式を司式しながら兄弟との出会いを回想しました。わたしが阪神チャペルセンターに赴任したのが26歳のときでありました。教会は開拓期当初であるために経済的には維持費もこと欠く現状でした。訪問して伝道することが唯一の方法でした。集会案内書を造るにも紙代がない状態であったのです。そこで、中学校が近くにあったので英語の勉強会をしてなにがしかの軍資金を得ようと手刷りビラを作って登校時に配ったのです。一ヶ月5百円の謝礼で10数人が来てくれました。その時の一人の生徒が晃義兄であったのです。英語を勉強しながら、半分は聖書のお話になったのですが、生徒たちは実によく聞いてくれました。やがて中学生クラスが教会に出来て、思い出は夏のキャンプでした。家島諸島の坊勢島近くの無人島、矢島でキャンプをしました。懐かしい思い出であるのです。晃義兄はその後、イエス様を信じて洗礼を受けました。昭和36年4月30日です。私は昭和35年に赴任して初めての受洗者でした。晃義兄はその後、関西大学を卒業し、三菱自動車に就職しましたが、お父さんの防災の会社を引き継いで事業を進めてきました。彼の愛誦聖句はヘブル人への手紙11章の1節「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」であることが知らされて、信仰に生きてきた姿を見ました。
 告別式は、別れを告げる時であり、家族は困惑と悲しみにくれる時でもあるのです。死を悼むのです。悼むはまた、痛むことであり、苦痛を感じ、悩み、悲しむことであるのです。死を悲しむことは自然の感情です。イエス様は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい。」(ヨハネ14:1)と言われます。そして「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(14:2,3)この言葉は正に、神様の国での住まう場所を表現しているのです。現実には体の消滅という死の悲しみと不安であるのですが、主イエス様を信じる者には永遠の神の御国に住まう平安が約束されているのです。
 イエス様は「わたしを信じなさい」と言われました。「わたしを信じる」ことは「神の国」を信じることに通じます。晃義兄は「信仰とは望んでいることを確信する」ことに生き、「まだ、見ていない未来の事実を確認した。」のです。神の国を見ていない、しかし、確実に神の国は現実となると確信しているのです。イエス様は「戻ってきて、あなたを私のもとに迎える。」(:3)と言っておられる。それは主の再臨を約束されているのです。ルカの福音書17章では弟子達と「神の国はいつ来るのか」と言う問いかけに、「神の国は、実に、あなたがたの間にある」と言われ、その後にノアの箱舟の出来事やソドム、ゴモラの滅亡の出来事を思い出すように警告されるのです。この出来事の共通点は、出来事が予告されていることにあります。それを聞いて信じた人と信じない人達の末路を指摘しているのです。「信じて確信する。未来のことを事実として確認する」ことにかかっているのです。主イエスは「信じないものではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)と言われるのです。
 確かに、現実の歴史でも「この宇宙は始まりがあり、終りがある」というのが地球物理学の通説になっています。学問の世界でも後50億年が地球の終りであると言われているのです。どのような根拠かあるのか分りませんが、その未来には誰もいるわけがないのです。聖書には、この世には終りの時があり、新しい創造の時が約束されています。完全な神の国の創造であるのです
 死が終わりでなく、永遠の始まりであるのです。神の国が来ると言う約束は決してそれが未来のことではなく、主イエス様は「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:21)と指摘されるのです。神の国は物質に拘束される現実の在り方でなく、「あなたがたの間」にこそあると言われるのです。言換えれば、イエス様の未来の神の国の実現は、信仰によって未来の事実を今に体験するのです。今、イエス様の御言葉を信じる信仰によってその「言葉」、その「約束」は現実の中で「神の国」が体験されることを意味しているのです。
 現実の罪深い生活の中で、信仰によって「神の国」を生きているのがクリスチャンの信仰であるのです。言換えれば神の国の心を祈り、実現する生活なのです。信仰による神の国は信じる人の心に、今、生活の中で経験されるのです。「神の国」は死後のことではなく現実の中で信じて生きる者に約束されるものであるのです。
 死は、終わりでなく、神の国の民の証の時であると言えます。永遠の命の確かさを確認する時でもあるのです。神の国は、永遠であり、信じる時に、今、現在、すでに永遠に気づくのです。主イエスが「わたしを信じなさい」と言われたように、主イエスの十字架によって罪贖われ、神の国の民として受け入れられるのです。そこに「命」即ち「永遠の命」への「道」が、間違いなく、ゆるぎなく「真理」の教え、道として示されているのです。
イエスは言われます「「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)イエスの道こそ「神の国」への真理の道です。使徒パウロは、「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。…これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」(ロマ8:31,32、37)
 イエス・キリストを信じる人は、永遠の今、その神の国に生きる勝利者であると言えます。主イエス様は「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ14:27)日々、永遠の神の国を今、生きるのです。その現実に神は共にいて導き、支えて下さるのです。神のいますところが神の国であるのです。

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