2012年 9月30日 礼拝メッセージ 

「日々の糧と平和の尊さ」
マタイによる福音書7章7−12節

 食べたいものが、何でも食べられるということは夢のようなことです。その夢のような世の中にわたしたちは住んでいるのです。何でも食べられるということに慣れてしまっているので実感が湧いてこないと言えます。ぼたもちが食べたいと思えば、いつでも買って来ることが出来る。お寿司が食べたければ回転寿司でたらふく食べられる。お餅も一年中売っている。この事に幸福感を持っている人はあまりいない。人間は慣れると当たり前になって喜びを感じない。そこにはことさらに「感謝」がないのです。しかし、「飢え」を経験した人にとってそれは「喜び」となり、「感謝」となるのです。
 戦中戦後に幼少期を過ごした人にとって「飢え」がどのように切ないものであり、悲しいものであるのかは言葉にならないものがあります。私たちの家族は戦前京都に住み、父の事業は順調で裕福な生活でした。伝統ある織物産業が斜陽となると共に、戦争による危険を感じた父は疎開を決意したのです。叔父を頼って島根の山深い村に疎開しました。そこでの農村の仕事に慣れず、間もなく海辺の町に移り父は慣れない木工会社に勤めることになりました。折悪く、台風で家は倒壊し、多くの家財は失われ、難民のような状態になり、何とかささやかな村営住宅に入りました。食糧難は日常化し、すべてのものは配給になりました。着る物、履物、穀類の欠乏は甚だしく、イモやカボチャの代用食で飢えをしのぐ様になっていたのです。塩も欠乏するのでした。ぼたもちはお盆にちょっと作るぐらい、砂糖がないのです。お餅もお正月にわずかにつくぐらいで、普段はまったく見ることもないものでした。お菓子はまったくありませんでした。このような「飢え」の時代を通った世代は現在の潤沢な食物のある中で本当に幸せを実感できるのです。
 苦しみを通って幸せが本当に実感でき、耐えられない悲しみを通って喜びを実感できるのです。マタイによる福音書の6章25節以降には「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」とあります。自然の鳥や、野の花でも命を支えられ、育まれている。誰かが養い育てているようにも思えないのに空を飛び、美しく咲いている。そこには神様の見えざるみ手があって、支えられていると指摘しているのです。ましてや「神様は、あなたがたの必要を御存じである」(6:32)だから神様の「神の国」を求めること、即ち、「神様の御心」に生きる時に、必要なものは備えられると約束されているのです。それは、思い悩むことの中で、神様を信じる信仰に生きることを示しているのです。信じゆだねることです。
 しかし、「ゆだねる」ということは、まかせて待つのでなく、7章の7節には「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれるであろう」(:7,8)言換えれば、正に、静的にゆだねて待つことと共に、待つことが行動的で積極的な側面を表していると言えます。それは内面的な信仰の確信を求める信仰の行動をあらわしていると言えるのです。信仰は待つ面だけでなく、求める行動としての力が表されることが大切であるのです。
 悩み、悲しみ、迷い、苦しむ、飢え、乾き、もだえる中でこそ、信仰の生きる力と命がそこから神様を経験することによって生まれてくるのです。全能の神を信頼する信仰こそ、希望を生みだすのです。希望は未来に属するものです。信じていることを確信し、見ていない事実を確認することであるのです。(ヘブル11:1)それを実現する努力が生まれるのです。努力のない希望は、「絵に描いた餅」しかすぎません。マタイ福音書7章の7節からイエス様は積極的な信仰の側面を打ち出されるのです。「求める」こと、「探す」こと、「叩き続ける」ことを求められるのです。信仰は、行動であり、生活です。その現実に信仰の希望は、明白な結果が表されるのです。
 直木賞作家の山本一力さんは高知の素封家に生まれながら、少年時代に倒産し、一家で上京することになります。中学生で上京早々、新聞配達をし高校を卒業するのです。就職はするのですが、職を転々と変えて40歳台になって2億円ばかりの借財が出来てしまいます。破産と虚無の中で何をすれば儲かるのか。資本なしでどうして稼げるかを考えるのでした。そこで、「小説」を書こうと決心したのが46歳であったのです。48歳の時に「蒼龍」でオール讀物新人賞を受賞してデビュー。53歳で「あかね空」で直木賞を受賞するのでした。彼は言います。「絶望は贅沢」であると。「試練」や「困窮」の中でこそ道が開けることを言っているのです。しかし、山本さんは、もの書きの能力を持っていた特別な人であると言ってしまえばそれまでです。イエス様は例外なく、神様を信じる人々に「天の父は、求める者に良い物を下さるに違いない。」(7:11)と断言されています。全能、全知である創造主であられる父なる神様を信じる信仰は、必ず、道が開かれることを約束しているのです。
 神の民イスラエルの歴史、出エジプトの出来事は、神様が正に、信頼する人に生きて働かれる多くの教訓を示しています。モーセをたてて奴隷階層として嫌しめられ、搾取され、虐げられているイスラエルの人々を解放へと導かれるのでした。数々の奇跡を通して解放されるのです。解放されたイスラエルは、シナイの荒野を通って約束の地カナンを目指すことになります。荒野で食料は尽き、食べる物がなくなるのです。人々は、苦しかったけれどもエジプトには食べ物があった事を回想してつぶやくのでした。そして解放を指導したモーセを「われわれを飢えで死なせようとしている」(出エ16:3)とののしるのでした。しかし、モーセは神様の御声を聞くのです。神様は「毎日、必要なパンを天から降らせる、毎日必要な分を集めなさい。六日目には二倍を集めなさい。」(:4)と言われ、「主が導かれたのだから、あなたがたは朝ごとに主の栄光を見る。」(:7)と言われるのでした。イスラエルは人の力ではどうにもならない逆境、苦悩、挫折の中で神が生きていることを教えられたのです。荒野という水もなく、休む場もない逆境の中で真実に主を信じることが何かということを体験的に教え訓練されたといえるのです。人間の能力、知力を越えた神様の知恵と力を出エジプトの記録は教えています。
 どのような時も、人は食が満たされると穏やかになるものです。平和の和は木の下で口を表しています。それは食事をともに木の下ですることを表し、和やか、穏やかな平和を意味すると言われています。衣食住こそ平和の実であると言えます。しかし、「衣食足って礼節を知る」と言いますが、神様を忘れてはその言葉は決して真実とはいえません。今日の社会保障、医療保障、生活と教育が潤沢になり、食べたいものが何でも食べられる至福の社会になりながら、自死者の増加、悲しい青少年のいじめによる自死、親の死を放置して何時までも年金を詐取する考えられない犯罪の横行。神様を忘れた今日であるのです。
今こそ、イエス様が現わして下さっている人の歩むべき真理の道、命の道を歩み、神様にある平和と祝福の道を歩もうではありませんか。

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ5:1−5)

 

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