2012年 10月7日 礼拝メッセージ 

「涙の種蒔きは喜びで刈り取る」
詩編126篇1―6節

 秋は、刈り入れの季節です。田んぼの稲は黄金にみのり、秋風に稲穂がうねる情景は収穫の喜びを表しています。山間(やまあい)の柿の木に実が赤く鈴なりになっている情景は田舎の懐かしい風情です。小さい時の思い出が走馬灯のように過ぎて行きます。私の父は丹波の生まれで、少年時代、秋になるとよく兄と一緒に柿を買いに田舎の親戚や知り合いにつれて行ってくれた。鈴なりになった柿の木を一本買うのである。都会育ちの子供にとって先を二つに裂いた長い竿で柿をもぎ取る楽しみは今も忘れない。荷袋に一杯になった柿を背負って帰り、家族で食べたり、近所に配ったりした。収穫の喜びは、田や畑を耕し、種を蒔き、肥料をやり、手入れをする。小さな芽が出る。伸びる姿に期待する。やがて背丈が伸びて稲穂が見え始める。実を稔らせ、立っていた穂が実ってしだれるようになる。その間には暴風の日もある。水害を心配し、日照りに水を心配する。様々な試練を通して刈り入れの秋を迎える時には、種をまいた人にしか分からない感動と喜びがあります。
 詩編126編には有名な刈り入れの詩があります。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」(5,6)“涙と共に種を蒔く”という言葉が、種を育てる苦労と辛さを表しています。“種の袋を背負い、泣きながら出て行った人“という重ねた言葉は種まく人の実際の情景からすると、何かの経験をだぶらせて形容しているのです。実際に、この詩は田畑を耕し、種を蒔き、気候の変動を気にしながら見守り、育てる労苦を回想して収穫の喜びを寿ぐ賛歌であるのです。しかし、最初の1〜4節では「主がシオンの捕らわれ人を連れ帰る」ことを聞いて「夢を見ているようになった」とあります。これは明らかに紀元前605年から始まるバビロンによる侵攻によってイスラエルが崩壊され、バビロンに捕囚されて、70年の異国での辛苦と差別、圧政の呻吟からの回復の日、帰国の日を待ち望む人々の気持ちが歌われているのです。BC536年バビロンが滅び、ペルシャのクロス王が支配するとイスラエルの解放が告げられるのです。いち早くその知らせを聞いた人々が、幾度となく絶望感にさいなまされた中で、神が預言者を通して語られた言葉、「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。」(イザヤ59:1)「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。」(イザヤ60:1,2)などに支えられ希望を持ち続けたといえます。そしてイスラエルは告白するのです。「そのときには、わたしたちの口に笑いが、舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう、『主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた』と。」(126:2)試練と困難、抑圧と惨めさの中にあってイスラエルは主に希望を持ち続けていたのです。預言者を通して語られた主のお言葉が、支えとなり、希望となったのです。そして「苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。」(ロマ5:3−5)というパウロの信仰の告白に一致します。“希望は欺かない”という御言葉は、口語訳では「(主にある)希望は失望に終わらない」と訳しています。主を信じる信仰の希望は必ず、答えられることを経験的に告白しているのです。イスラエルは、クロス王の解放の知らせを聞きました。だから、一時も早く、それを実現して下さいという祈りが126篇の3,4節に出て来るといえます。不可能であると思えた解放が知らされたのです。「主よ、わたしたちのために、大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。」(:3)主が、試練を克服し、道を開いて下さった。主の御心を待ち望み、解放が訪れることを信じた結果が今実現すると告げられたのでした。歌います「主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように、わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。」(:4)ネゲブはユダヤ南部の荒涼たる地方であり、幾筋かの涸河が時として激流となる有り様のように、奇跡にも似たこの河の変化をイスラエルの回復が奇跡的に起こることを歌っているのです。人知を越えた主を待ち望む者だけが経験する感動であることを歌っています。彼らはイザヤの預言の言葉を噛みしめたに違いありません。
「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。
疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ40:28−31)
 第一に、クリスチャンの生き方の基本は、信仰の種を蒔くことにあります。主を信じる信仰の種は、どのような試練や困難があったとしても時が来たら必ず、刈り取る喜びが約束されているのです。人の生涯は、様々な意味でバビロンの捕囚のように、そこは永住の地でなく、ホームではないのです。矛盾と苦悩が連鎖します。一時の喜びや快楽もあるかもしれません。しかしネゲブの荒野であるといえます。主を信じる信仰は、解放、回復を約束するのです。「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。」(イザヤ60:2)だからこそ主のみ言葉、御心に生きるのです。現実の中で勝利を与え、終末の世に永遠の解放、回復を成し遂げ、死を越えて永遠の神の国を再創造されるのです。
 第二に、信仰の喜びは、主にある解放と回復の希望に共に生きることです。喜びは命です。命は力です。「主を喜ぶことはあなたがたの力です。」(ネヘミヤ8:10口語訳)喜びは、エネルギー、力です。主を喜ぶことは主を愛することです。ここに命の喜びがあるのです。永遠の命、永遠の喜び、永遠の愛、永遠の解放、救いの喜びがあるのです。126篇に詩は、わたし、でなく、“わたしたちは夢を見ている人ようになった”“わたしたちの口に笑いが”“わたしたちの捕らわれ人を連れ帰って下さい”失われた人、捕らわれている人、解放されていない人々を帰して下さいという叫びこそ、まだ、解放されていない人々への祈りであるのです。その祈りが実現することを願うのが、クリスチャンの祈りです。人々に神の計画を知らせ、解放が告げられている喜びを伝えることこそ真実の喜びです。今のクリスチャンにとって、人間の根源的な心の闇、罪ある人の救いを完成されたキリストの十字架の贖い、罪からの救いと永遠の命を一人でも多くの人々が受け入れ、神の国を実践し、神にある真実の和解と平和を分かち合えるようになることこそ、捕囚からの解放を告げ知らせることなのです。 “涙をもって種まく”ということは“キリストの福音を伝える”ことであり、それは必ず、刈り入れの束を携え、主を喜び、主を賛美する恵みの祝福となるのです。
 「目を上げて畑を見よ。色づいて刈り入れを待っている…種まく人も刈る人も、共に喜ぶ」(ヨハネ4:36)為に。宣教の喜びを分かち合おうではありませんか。

 

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