2012年 10月21日 礼拝メッセージ 

「栄光の祝福と恵みの賛美」
イザヤ書62章1―5節

 わたしたちの教会の賛美チームの名はグロリヤ・ゴスペル・コワイヤで、普段はG・G・Cと呼んでいます。「グロリヤ」は「栄光の賛歌」という意味で、神様の栄光を賛美するという意味になります。「栄光」という言葉は旧約聖書ではヘブル語でガーボードゥという言葉です。70人の学者がギリシャ語に翻訳した旧約聖書ではドクサと訳されていて、新約聖書に受け継がれています。もともとは「重い」という意味であって「荘重」、「威厳」そして「光栄」という意味で用いられ、神様の素晴らしさ、尊さ、偉大さ、荘厳を表しています。聖書は神様の偉大さ、素晴らしさ、究極的な力と叡智の輝きを証ししています。また、人の富と権威にも「栄光」という言葉が重ねてもちいられます。業績や事業の成功などには「光栄です。」と言い、「栄光」という言葉は決して自分からはもちいられない。光栄は「誉れある」ことであると思い、認識することになるのです。本来、神様の偉大さを讃える言葉ですから、人が神様と同じ栄光に輝くと言われる時に、自らが神になるような傲慢な誘惑に陥る傾向になるものです。聖書は、その人の空しさを警告しています。「人に富が増し、その家に名誉が加わるときも、あなたは恐れることはない。死ぬときは、何ひとつ携えて行くことができず、名誉が彼の後を追って墓に下るわけでもない。命のある間に、その魂が祝福され、幸福を人がたたえても、彼は父祖の列に帰り、永遠に光を見ることはない。人間は栄華のうちに悟りを得ることはない。屠られる獣に等しい。」(詩篇49:17−21)神様への従順こそが、その人の「栄光」であると教えるのです。
 クリスチャンは、「生きる目的」に目覚め、神に愛されている喜びに生きる時に自分を通して、神様の「栄光」を表すことになるのです。聖書は「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の“栄光”を現しなさい。」(Tコリント6:19,20)自分の体で神様の栄光を表しなさいと言うのです。この御言葉によってウエストミンスタ―教理問答の第一問には「人間のおもな、最高の目的は、何であるのか。」と問い、その答えは「人間の主な、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである。」と答えています。これはクリスチャンは生活のすべてのことに“キリストを信じている”者として神様の「栄光」をあらわしている、即ち、神様を証ししていることを示しているのです。言い換えれば、わたしたちの生活を通して神様が生きて共に働いて下さっているということが証しされ、神様の臨在が輝き、共に、その御名を崇める事が出来るようになるということであるのです。「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(Tコリント10:31)
 しかし、わたしたちの現実の世界は、神様の栄光の光はどこにあるのかといぶかるような日常であるといえます。猜疑と憎しみ、不安といら立ち、疲れと吐息の多い日常であるのです。確かに、長い日々の歩みは試練の連続とも思われるのです。今朝、与えられているイザヤ書の62章には「シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず、エルサレムのために、わたしは決して黙さない。彼女の正しさが光と輝き出で、彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。」(:1)シオンはエルサレム全体を表し、そこに住む住民を指しています。また繰り返しエルサレムを示しているのです。イスラエルがバビロンに捕囚され、神殿は破壊され、国が滅亡して荒廃し、希望もなく、暗黒の中で嘆く人々に「黙すことなく、救いが松明のように輝き、燃え上がるまで、わたしは黙さない。…諸国民は必ず、「栄光」を仰ぐ。」(:2)と約束されているのです。旧約聖書は神様の救いの回復の記録であるのです。信じる者に答えられる活ける神の証しであるのです。荒廃したものを「再建」する約束がそこには宣言されています。出エジプトや、バビロンの捕囚からの回復において示されるように、イスラエルは人の弱さを繰り返し、破壊と混乱の度に、様々な失敗を犯したが、神はその罪を赦して回復されると約束しているのです。使徒ヨハネは主イエスについて「言葉は肉体となって、わたしたちの間に宿られた。わたしはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって恵みと真理に満ちていた。」(ヨハネ1:14)と記しています。この栄光は「まことの光で、世に来てすべての人を照らすのであった。」(1:9)そして、この光こそは「神の言葉の内にある命であり、命は人間を照らす光であった。」(:4)神様の命の栄光が、キリストの内に輝き出で回復の完成として苦難の勝利があらわされているのです。「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(ロマ5:2−4)
 神の「栄光」を表し、それを生きる目的とすることは「信仰」によって体験されるのです。「イエスは、『もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか』と言われた。」(ヨハネ11:40)主イエス様は、悲惨と絶望の中にも「信じる」なら「栄光」を崇めるであろうと約束されているのです。闇を打ち消す信仰の光こそは,活ける主が正に共にいて道を開き、癒やしを実現し、問題を解決して下さるのです。主イエス様は言われます「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)活ける主は、信じる信仰によって共にいて「栄光」を表して下さるのです。
 1977年、教会成長運動が国際的に広がり、「信仰によるビジョンの実現」というスローガンで祈り始めました。教会の会堂は手狭であり新しい会堂の建設を祈り始めたのです。祈るうちにビジョンは膨らんでいきました。長い間の計画的な経済的裏付けもなく、夢のようなビジョンでした。当時は宗教法人には銀行融資も難しい時代でした。一年で取り組もうということになりましたが、教会の献金も予約献金でなんとか半分にこぎつけました。とにかく祈りました。最初のビジョンはだんだん現実の経済事情で削減気味になるのです。しかし、兎に角、祈ろうと言うことになり、目的のビジョンが達成できるようにと祈ったのです。先ず、銀行融資の道が開かれました。そこで着工に踏み切ったのですが、新築の会堂に相応しい調度品の予算がないのです。しかし、再び、みんなで祈りました。知恵を下さり道を開いて下さいと。ベンチやソフアーは皆が座るものであるから、家族単位で祈ってささげようということになり、祈り初めると不思議なことに必要が満たされたのです。ベンチは韓国から特別に完成素材を輸入し、塗装を全く遠い関係の教会のクリスチャンの塗装屋さんが奉仕して下さることになったのです。ソフアーも不思議とカリモクの高級な家具を備えることが出来ました。正に「主備えたもう」という約束を経験したのです。
「信じるなら、栄光を見る」という言葉の真実を経験したのです。
イエス・キリストによって創造主なる神様の栄光は、信じる人の信仰によって輝き出でるのです。「信仰は聞くにより、聞くはキリスト・イエスの言葉に始まる。」(ロマ10:17)主のみ言葉によって聖霊は働かれ、聖霊は信じる人をその人の内に会ってキリストの光、「栄光」を輝かせて下さるのです。
「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」
              (Uコリント3:18)

 

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