2012年 10月28日 礼拝メッセージ 

「見えない宝、自由の尊さ」
ヨハネ福音書8章31−38節

 「宝物」と言えば、宝石や資産であったり、株券や債券であったりします。或る人にとっては希少価値のある自動車であったり、カメラであったりするものです。「宝物」とは「大切な財貨」「貴重な品物」といえるでしょう。人によって「大切さ」の意味は違うものです。「尊さ」はそのものが何であれ、持っている人に「価値の意味」があるものです。しかし、全ての人にとって幸せである為に無くてならないもの、それがなくては真実な意味で人間として生きられないものこそ真の「宝」であるのです。言い換えれば、それがなければ人は、人として生きていると言えないもの、それは「命」と「自由」であるのです。
 ヨハネ福音書8章31節と32節には「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。』」と記されています。聖書は「自由」の尊さ、大切さを教え、「自由」に生きる道こそ、キリストの救い、福音に生きる人であることを示しています。
ここでイエス様は「ご自分を信じたユダヤ人に」言われているのです。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。」と言われるのです。信じているのに「わたしの言葉にとどまらなければ」「本当のわたしの弟子ではない」というのです。確かに、わたしたちは生活の中でクリスチャンだと言いながら、世の中の長きにわたる因習や習俗、この世の流れに縛られていることがあります。祭りや、町会の行事や近所のつき合いなどで礼拝を休むことがあります。クリスチャンとしてお祈りをしていながら思わず「南無阿弥陀仏」と言ってしまったり、イエス様の福音を通して聖書を読もうとせず、自分の考えで理解しようとしてしまうようなことがあります。
イエス様は「本当の弟子」は「わたしの言葉にとどまる」人であることを教えておられるのです。「言葉にとどまる」、とどまるは聖書の原語であるギリシャ語では「メノー」と言って、「住まう」「生活する」又、ある人は「根ざして」という言葉に訳している人もあります。イエス様を信じているというのはイエス様の言葉、教えを信じることですから、「信じ」受け入れる「実行」することがあって実を結ぶのです。信じることは信頼であり、信頼は言葉を守る、服従することになるのです。
 イエス様の言葉、教え、福音に「とどまる」、即ち、生活の中で「御言葉」イエス様の言葉にとどまる、根差し、住み、生活する時、そこに実が結ばれると約束されているのです。このイエス様を信じ「御言葉」が生かされる時にこそ、イエス様の教えが生きた「真理」として証しされることになり、そこに人の最も大切な「自由」が経験される、即ち、「自由になる」と約束するのです。
自由に生きる、食べたいものは自由に食べる、したいことは何でもできる、買いたいものは何でも買える。しかし、食べたいものが健康に悪い、したいことはこの世では許されない罪悪、買いたいものが人を破滅するものである時にその自由はとどめられなければならないと言えます。自由と放縦は違います。人は人と共に生きるのです。「命」の大切さを無視して生きることは出来ません。
「ご自分(イエス)を信じたユダヤ人」たちは「わたしたちはアブラハムの子孫です。どうして自由になるなどと言われるのですか。誰かの奴隷になったことはありません。」(:33)と言うのです。アブラハムの子孫は神様に選らばれた国民です。奴隷として自由を失ったことはないのです。どうしていまさら「自由」を得るなどと言われるのですか。これにイエス様は「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」(:34−36)アブラハムの子孫、神に選らばれている、しかし、人間は誰でも罪を犯す弱いものである。奴隷は解放されて家を出て行くが、イエス様は、あなた方は罪ある人であるが「わたしが共に」いるのだから、わたしの言葉に生きるのなら「あなたがたを自由にする」いや「本当に自由になる」と言われるのです。イエス様は、欲望と欲情の奴隷であり、自己中心と放縦という罪深さから解放してくださり、救いを約束されているのです。ガラテヤ人への手紙に「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(5:1)と記しています。
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(5:13)人は、共に生きることによって人間となるのです。それは互いに愛し合うこと、愛することは愛している人のために生きる。愛している人の為に犠牲になる。「自由を、肉に罪を犯させる機会としないで」生きることを教えているのです。ルターは「キリスト者の自由」という著作のなかで、「キリスト者は、あらゆるものの、最も自由な主であって、何ものにも隷属しない。キリスト者は、あらゆるものの、最も義務を負うている僕であって、すべてのものに隷属している。」と言っています。聖書の教えはときとして矛盾していることがあります。この言葉は、イエス様の愛に生かされている証しとしてイエス様の御言葉に従い、それは「隣人を自分のように愛しなさい。」という御言葉(マルコ12:31)に尽きるのです。神様を愛するように隣人を愛することであるのです。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。」(Tコリント9:19)この言葉で分かるように、できるだけ多くの人がイエス様の自由を得ることが出来るように、「すべての人の奴隷」になったというのです。人々がイエス様の救いを得るために自由を犠牲にしていることになります。この真意は「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」(Tコリント9:22,23)の言葉で言い表されているのです。
神様は愛であるがゆえに、人が神の愛に生きるようになるために、本質的に犠牲と使命を負うて下さるのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)「自分の命を捨てることこれより大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)イエス・キリストの「愛」が、人に「命」を与え、真実の「自由」に生かすための、救いの道であり、それは罪を贖う十字架の出来事を通して示されたのです。キリストを信じ、キリストの言葉に生き、根差し、とどまり「本当のキリスト弟子」になることによって多くの実を結ぶのです。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」(ヨハネ15:7,8)このお言葉が「本当のわたしの弟子」を言い表しています。主の栄光、主の臨在、即ち、聖霊があらゆるものから人を解放し「自由」を与えるのです。「主の霊のおられるところに『自由』があります。」(Uコリント3:17)イエス様が「あなたたちは本当に自由になる。」(ヨハネ8:36)と約束される「自由」こそ、人の生きる「命」、永遠の命、その「命」こそキリストに表された「神様の愛」であります。

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(Tヨハネ4:9)

 

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