2012年 11月4日 礼拝メッセージ 

「勝利と敗北の狭間」
マタイのよる福音書4章1―11節

 日本シリーズは巨人軍の勝利で終わった。巨人ファンにとってはこたえられない歓喜である。阪神ファンにとってはふがいないシリーズでもあった。最近はサッカーも世界の強豪と競り合うような試合もありナデシコの強さは抜群です。サムライ・ジャパンも世界順位を挙げている。スポーツには多くの種類があるが、その勝敗はルールを守って得点を増やすことにある。野球は静的な緊張があり、豪快なホームランはダイナマイトの爆発を連想する。サッカーには絶えず行動する緊張感が、一瞬の行動と瞬時の組み合わせ、個人の反応が得点に結びつく感動の魅力である。どのゲームを見ても勝敗の狭間で情熱が交差する。競技をする人、観戦する人との不思議な緊張心理の交換が流れる。
 わたしたちの生活や、人生そのものもゲームに似ていると考える事ができる。多くの人との出会いの中で共に生きるには、ルールを守ることを基本にしなければゲームは成り立たない。ルールを無視する時に混乱と不信が渦巻くことになる。人を信じるか、取引の相手を信じるか、相場の動きを有利に判断できるかなどで迷い、困惑することもある。お金がなければ生活は出来なくなる。したいことも、食べたいことも、何をしたいと言ってもお金が付いて回る。欲望に振り回される時、人が大切にしなければならない“信義”“信用”“誠実”が失われることになる。
マタイ福音書4章にはイエス様が悪魔の誘惑を受けられる出来事がある。この記事は3章のイエス様の受洗に際して、「神の子」として受けた使命の達成の辿るべき道への、主イエス様の応答の告白であり、宣言であると考えられる。“聖霊に導かれて”と記録しているように神様の御心に従って荒野に行き、四十日四十夜の断食という苦業を通して自らの辿るべき使命の道筋を歩まれようとされたのでした。このイエス様の、誘惑からの勝利を通して、クリスチャンの信仰の基礎となる勝利の人生の道筋を、ガリラヤから宣教を始める前にお教えになっているのです。
この出来事はイエス様が経験された出来事を弟子たちが直接聞いた記事であって、イエス様は出エジプトにおけるモーセが辿った挫折と回復の繰り返しに対して、完成された道筋を証ししていると言えます。試練は問題に直面して初めて解決の糸口を探し、解明することによって克服することが出来ます。イエス様は聖霊に導かれて四十日の断食をされ空腹という自己の限界の中で悪魔と対話し“神の子”としての証しを示されているのです。イエス様を救い主キリストと信じ、神様の御心に生きるクリスチャンの基礎的歩みを示されているのです。
 四十日の断食と誘惑が何を示しているのでしょうか。人は生きるために何を基本にして生きているのかということを選ぶ試練、即ち、誘惑の連続であるということを示していると言えます。トルストイは「人は食べるために生きるのでなく、生きる為に食べるのである」と言っています。人として生きる道、基本をわきまえることこそが真実に生き、生かされることになるのです。
 1節に「悪魔から誘惑を受ける」とあり、3節には悪魔が「誘惑する者」と表現しています。「誘惑する」という聖書の言葉はペイラゾウ(πϵιράζω)と言い、試みる、誘惑する、試練に会うという語意であり、困難や不安、危険や、脅し、不信が背景にあることになります。それは真価を実証する肯定的な側面と否定的に堕落へと誘惑することもあるのです。それは心の真偽や誠実、信頼などを迷わすことを意味することになります。更に、純粋な意味で吟味する、批判的に興味本位で試みる、脅す、苦しめる、そそのかす、挑発する、疑念を抱く、もくろみ、軌道に乗せるなどが重なり合うことになるのです。考えてみれば毎日の生活はこのように、迷い、考え、選び、決断の連続であることを教えられます。
イエス様は、第一に、極限の空腹で試みる者に「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」といわれます。悪魔は、イエス様に受洗のとき“これは愛する子”という救い主としての使命が示されたように、本当に“神の子”であり、神であるなら「石」を「パン」に変えて、極限的な空腹を満たすことが出来るだろうと試みるのです。イエス様は御言葉で答えられます。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(申8:2)と言われるのです。パンだけで生きるとは、パンも必要です。体を生かすのです。でも、体は何時かは消滅し、失せるのです。しかし、「神の言葉」は人の魂を生かし、霊性を目覚めさせ人は死で人生を終わるのでなく「永遠の命」へと生きる存在であるということを示しおられるのです。永遠の命に目覚めてこそ、人は、人として生きることになるのです。死は、不安、絶望、虚無、消滅、空虚であるのです。神の言葉、命の言葉、不変の言葉によって生きる時にこそ真実の人としての幸せが約束されるのです。「信じる者が皆、人の子(キリスト)によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子(キリスト)を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:15,16)イエス様は「神の言葉」、聖書に生きる道こそは人を人として生かす「真理の道」(ヨハネ14:6)であることを示されたのです。
 第二に、悪魔は、イエス様をエルサレムの神殿の屋根に立たせて今度は聖書をもって挑戦するのです。(詩91:11)神殿の屋根から飛び降りよというのです。しかし、イエス様は申命記の言葉をもって「あなたの神である主を試してはならない。」と答えられるのです。この「試み」は、神を「疑う」ことであって、信じていないことになります。神様が出来るか、出来ないかという擬念をもつことの愚かさを主は示しておられるのです。神は全能です。そして、愛であるのです。神の奇跡は愛のメッセージであるのです。信仰は希望であり、確信であるのです。疑いは、迷いであり、不安と混乱であるのです。
 第三に、悪魔は、イエス様を小高い山に導き、世の国々の繁栄を見せて「わたしを拝むなら、これをみんな与えよう。」というのでした。主は直ちに聖書を示されるのでした。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。」(申6:13)人は権力と富に支配されます。多くの為政者が神になろうと試みて滅亡しています。極限的な欲望にいつも人は惑わされるのです。その背後には正に、その実態である悪魔が誘う者として人をおとしめるのです。
 人生は戦いです。一時も、絶えることなく「誘惑する者」が、見えない姿で人の霊性を撹乱し、破滅へといざなうのです。聖書は「悪魔にすきを与えてはなりません。」(エフェソ4:27)「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。」(ヤコブ4:7,8)と警告しています。
 主イエス様は、荒野の誘惑で「イスラエル(神に選ばれた子たち)よく聞け、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(マルコ12:29、申6:4)を証しされたのです。主の言葉に生き、従い、導かれることこそ勝利の日々を約束されているのです。輝かしく、喜びの勝利と疑惑と混乱の敗北の狭間で今日も信仰の日々が進んでいるのです。神の聖霊を悲しませることなく(エフェソ4:30)キリストのお言葉を信じて日々の悪魔の挑戦に勝利して進もうではありませんか。

「神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」
(Ⅰヨハネ5:3-5)

 

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