2012年 11月11日 礼拝メッセージ 

「活けるキリストの福音」
ルカによる福音書9章1―6節

 わたしたちは日頃何気なく生活し、仕事に行き、学びに行き、遊びに行きます。考えてみると何かをするという目的をもって生きているのです。クリスチャンはキリストを通して神様に出会い、キリストの言葉を信じ受け入れました。神様が素晴らしい方であることを知り、体験したのです。それは神さまを知らなかった時の空しさからの解放です。死ですべてが終わるという空しさは、生きているすべてのものを空しくするものであり、切なさでもあります。何故生きているのかが分からず、忙しさの中で過ごしていながら、はたと自分の生きる姿に気が付く時、空しさがこみ上げる時があります。空しさは生きる目的が分からない時に気付きます。何のためにこのようなことをしているのだろうと思う時、こみ上げてくる空しさを感じるのです。自然を見て創造の不思議に、なぜこのような存在があるのだろうかともふと思うことがあるものです。詩編には「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。」(詩19:1)とあります。神の栄光を表すというのは、神様は素晴らしい、偉大であり、人の思いをはるかに超えたみ業をなさることを示しているのです。そしてまた、聖書は「人を神に似せて創られた」(創1:27)と記しているのです。正に、人は、不思議な存在であるのです。あらゆる自然の仕組みの不思議のように、その不思議から、その存在の仕組みを極め、仕組みを組み立て創造し、新たな創造を産み出すのです。それは自然の中に仕組まれた神秘を解き明かすのです。それが科学であるということが出来ます。「神初めに天地を創造された」(創1;1)ように、創造する喜びを楽しみ、豊かにする力を備えられているのです。人の創造は、創造されたものからの創造であって、創造された人はその中で神の創造を楽しみ喜ぶことになるのです。
 しかし、人は何時か肉の体は枯れることになります。消滅です。人はかぎりなく不安になり、孤独になり、絶望感に襲われることになるのです。何故そのような思いになるのでしょうか。それは、人の思いは本来、霊魂によってあるからです。言換えれば、人は霊的存在であるのです。肉体と霊魂の分離こそが死であるのです。孤独な存在が生きる者とされ、生かし、愛し、愛される共有の間に生まれる生きる喜びをもつことができます。その喜びが失せる時、空しさと絶望感、即ち、不安が襲うことになります。本来、神に似せて造られている人は、神と共に生きることこそが、人が人として生きる道であることを示しているのです。言換えれば、「天地が神の栄光を表す」即ち、神様の素晴らしさを表しているように、人も本来「神の栄光」を表す者として創造されていることが「神に似せた」根本的な意味だと言えます。しかし現実には人が素晴らしい、代えがたい栄光に溢れているとはとうてい言い難い日常であるのです。何故人の現実は神の栄光を阻害しているのでしょうか。それは神様から離れているからです。神から離れた人は、生きる基準は自己になります。自己中心であるのです。自己中心こそ人間の根源的な罪です。聖書は「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。」(ロマ3:23)と言っているのです。
 神はキリストを世に遣わし、神様の救いの門を開いて下さったのです。神が共におられるのです。「神は、独り子(キリスト)を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Tヨハネ4:9,10)ここでいう生きるとは、この世の命に生きるのでなく、死を越えた永遠に生きる命を言っています。それは聖書に明確に宣言されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子(イエス・キリスト)を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)正に、永遠の神様と共に生きることを言っているのです。この命は今と死後の二元的な時間でなく、信じる信仰によって“永遠は今”キリストは共にいて神様の恵みを経験させて下さるのです。
 イエス様は弟子たちを呼び集めて「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能を授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人を癒すために遣わされた。」(ルカ9:1,2)神の国というのは、神が共におられるところである。それを宣教するのである。イエスは「実に、神の国はあなた方の間にある。」(ルカ17:21)と宣言されているのです。正に、イエスが共におられるところこそは天国であるのです。イエスの約束である「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがと共にいる」(マタイ28:20)の御言葉は真実であるのです。キリストを信じる時、今、ここに主は共にいて下さるのです。活ける主が共におられる、活ける神が共におられる、そこに神の国がある。そこに「病気を癒す力と権能」を授けられているのです。病気を癒す能力、それは神様の権能、エクスシア、権威、支配であるのです。病気に表されている煩い、苦悩、戸惑い、悲惨などを払しょくし、解放、癒やす、救う栄光を表す能力であるのです。神様が働き、神様が行う力の及ぶ場であると言えます。神の国は神の支配を意味します。その神の国を伝え、イエスの名で祈る時に「神様は素晴らしい」、神の栄光の証し、神様が事実おられることを証しすることになるのです。
 三浦綾子読書会で土曜日に「光あるうちに」という作品を読みました。そこの一節に矢部さんという歩行困難な障害をもつ方がおられ、お母さんの世話で生活されていたのですが、お母さんは召されて自分一人で生きなければならなくなったのです。その時には不自由ながらなんとか自分で生活出来るようになっていたのです。そのような人でしたが日曜学校を始め、子供たちにイエス様を伝えるのでした。やがて、大人の人々にも福音を伝えようと家庭集会を始め30人の人たちが洗礼を受けたというのです。もしイエス様を信じていなければ自暴自棄になり、愚痴を言いながら暗い人生を歩んだに違いないというのです。しかし、キリストを信じる信仰によって人を慰め励ます人に変えられたのです。この人の事を聞いて全国から訪ねる人があったというのです。正に、孤独と苦難の中でもキリストが共にいて下さる時、そこが神の国であり、神の栄光、神様は素晴らしいという喜びと感激が生まれたのです。使徒パウロの言葉に「主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(Uコリント12:9、10)というのがあります。弱さの中で神様の力が十分に表されるというのです。弱さを誇れる人に変えられるのです。苦しみや悲しみ、試練や、苦難の時こそ、そこにキリストがおいで下されば祝福のしるしとなると言えるのです。その「その弱さ」を誇れる活ける神様を体験できるのです。
 勿論、病が即座に癒やされる時もありましょう。しかし、解決に時間がかかったとしても全能の神を信じる信仰はその人に最も有益な解決を与えて下さるのです。信仰による希望が今を喜びにして下さり、神の国にいる事実に驚くべき恵みを体験するのです。活ける神が共におられるからです。弟子たちにイエス様は「旅には何も持っていてはならない。杖も袋もパンもお金も持っていてはならない。下着二枚も持ってはならない。」(:3)と言われました。「どこかの家にとどまりなさい。」と言われます。マタイ6章では繰り返し「思い煩うな」と言われています。「あなたの神は、あなたが必要なものは皆よくご存じである」(:32)と言われているのです。神を全く信頼し、栄光を表わせと教えておられるのです。

 

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