2012年 11月18日 礼拝メッセージ 

「一致の力と希望と平和」
マタイによる福音書18章15−20節

 「美しい」と言う言葉ほど魅力的な言葉はありません。自然の美しさには感動します。秋は紅葉が美しく、京都の高雄のもみじの真紅であでやかな美しさには、言葉につくせない感動をおぼえます。春の桜、平安神宮の神苑の八重桜の美しさは何にも比べることが出来ません。時と共に美しいものにひかれます。「神はお造りになったすべのものをご覧になった。それは極めて良かった。」(創2:31)と言っておられます。創造の後、そのすべてのものが「良かった」というのです。それは「調和」のとれている「美しさ」を意味しています。神様の満足です。美しさは「完成」をも意味します。神様の性質に似せて造られた人は、その一つに「創造の能力」を特性として与えられているといえます。幸せを求めてものを作り生活を豊かにします。美術は総合芸術と言い彫刻や、絵画、また音を構成して音楽の世界を開き、美しさを求めてその「完成」を極めることになります。そして心の美しさ、しぐさの美しさ、仲の良い美しさなどがあります。
 マタイによる福音書18章15節からは、もめごとから起こる教会の分裂や、混乱、交わりの亀裂を回復する道と、キリストにあるクリスチャンの交わりの根本的な在り方を教えています。三浦綾子読書会で先日取り上げた課題図書は、「光あるうちに」という信仰入門書であったのですが、最終章で「キリストの教会」への導きの項がありました。教会への御誘いの言葉で、教会は神様を信じている人の集まりだから、良い人たちの集まりであると誰でもが思うのではないだろうかとあるのです。しかし意外なことに三浦さんは率直にありのままを紹介しているのです。「(教会)とは普通の人の集まっているところに過ぎないのだ。別段、特別立派で、善人で、清らかな心の人ばかり集まっているわけではない。…自分の魂の醜さに気づいて苦しんだ入り、体が弱くて失望したり、というように、何らかの悩みや痛みを人知れず抱いて、思い切って教会の敷居をまたいだ人が大半である。」(p170)と言っています。そのような不完全な人の集まりでは時には、躓くような問題が起こる可能性もあります。ということは、世の中と何ら変わらない人の集まり、交わりであるとも言えます。正に「美しくない、不完全な場」であるのです。しかし、そこにはイエス・キリストがおられる。キリストを信じている人たちの集まりであり、長い信仰生活でキリストの御心を学び、聖書の言葉に導かれて敬虔な人たちもいます。昨今来会した人たちはこれから成長する人たちであるのです。
マタイによる福音書の18章の言葉では、その交わりの中で過ちが起こった時の解決の仕方が教えられているのです。どのような罪であるとは説明がありませんが、何かの利害関係で交わりが決裂しているのです。対立と論争、憎しみと抗争が渦巻き、周りの人たちをもまきこんで「キリスト教会」の交わりを破棄しているのです。そこで調停して悔い改め和解するように教えています。それでも解決に至らないなら教会のおそらく長老(役員)の方々のところで調整して導いていただきなさいと言うのです。それは、キリストの贖いの恵みを感謝し、罪を認めて悔い改め、キリストの十字架の罪の赦しを受け入れることであるのです。
 我欲と自己中心の中では、自らの醜さや過ちを認めることは困難です。三浦綾子さんの著書「光あるうちに」では、人間の深刻な罪は「自覚しない罪」であると指摘しています。光のある時に、人の見えない、内面的な自覚しない暗闇の罪が明確にあるのです。内面的な心の汚れや罪が、明らかにされ自覚されるのです。「(キリスト)言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗黒の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ1:4)キリストの前に出て、初めて人は、自分の見えない内面の罪と醜さを自覚できるのです。「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」(Tヨハネ1:7−10)キリストの十字架こそは、人の罪を背負う神様の贖罪のメッセージであるのです。十字架は人の罪を裁く、醜悪で、残酷な現実です。しかし、そこに人の罪の贖いとして犠牲になられた「神の愛と恵み」が凝縮されているのです。醜悪な場は光り輝く、新しい命の道を示すことになるのです。人にとって最も醜悪な処刑の十字架が、愛と希望、永遠の命への道筋になるのです。
 主イエスは「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、地上で解くことは天上でも解かれる。」(:18)と言われるのです。「つなぐ」とは禁じることであって「解く」ことは赦すことです。天上とは、正に、神様の前で決せられることを言っているのです。キリストを信じ、キリストに生きることを示しています。
そこで「はっきり」言っておくと言う言葉があります。決定的、最終的な方向性を示されるのです。それは「二人の心を一つにして求めるなら、天の父はそれをかなえて下さる。」その理由として「二人が、わたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(:20)と言われます。二人の人が心を一つして祈る所に「わたしはいる」と言われるのです。二人の心が一つになることは言葉では簡単ですが、現実には難しいことであるのです。しかし、一人の人が心からキリストを信じ、従い、もう一人の人がキリストに心から従う時、初めてキリストによって一つになることが出来ることになります。キリストの十字架は正に醜悪で、残酷なものであって、どのようにも「美しい」とはいえないのです。しかし、そこに神様の窮極的な愛と恵み、湧き上がる慈愛を見出す時にそこには神様しか表しえない救いが「完成された美」として描き出されるのです。そして決して一つになれない醜悪な罪深い二人の人間が、一つになれる道をキリストは示して下さるのです。
「一致」、一つになれることこそは、調和であり完成であり、真の美しさが輝くことになるのです。それが平和であるのです。キリストは「平和の源」です。(ロマ15:33)平和のあるところには明日への希望が生まれます。希望のあるところには意欲が生まれ、喜びがあり、勝利があるのです。
「心を一つにする」という言葉は「スンホネオー」と言って集める、一緒にするという意味で、シンフォニーの語源です。個性の違う楽器が色々な音色を調和させることで交響曲が演奏されます。一つ一つの個性の違う楽器がお互いの音を出して更に次元の違う音楽が生まれるのです。キリストにあって個性の違う一人一人が、キリストの御心にかなう一つの調和と完成を生みだす、そこに「どのような願い事」であれ「天の父はかなえられる」と約束されているのです。
今おかれている中で目標を明確にして挑戦しようではありませんか。明日への希望の宣教としての青少年伝道が課題です。躍動するゴスペルコワイヤの宣教。一人の人の確実な救いを求めて宣教の奉仕者の働きが実り多いものになるように。希望と前進、一致の祈りでリバイバルを! 

 

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