2012年 11月25日 礼拝メッセージ 

「感謝にあふれ、感謝の日々」
詩編136篇1−26節

 11月の第4木曜日は収穫感謝祭としてアメリカでは祝日とし、記念します。木曜日から日曜日までの連休に家族が集まって感謝祭の食事を共にするのです。感謝祭は、1920年に宗教の自由を求めてヨーロッパからアメリカに移住してきた「プリグリム・ファーザース」と呼ばれている「清教徒」105人の人たちに由来すると言われています。9月に船出して11月にプリマス植民地に上陸するのですが、すでに寒い季節になっていたのです。プリグリム・ファーザースの人たちは学者や弁護士のような人たちで農耕には経験がなく、寒く厳しい冬をしのぐのに苦しみます。その困窮を見て、ネイティブアメリカンの人たちが古い丸太小屋などを提供し、色々な作物をくれて飢えをしのいだのです。その年だけで半数のプリグリム・ファーザースの人達が亡くなったと言います。年が明けてワンパノアグ族の人たちに農耕を教えられ、種をもらいやがて収穫を迎えます。思ったより多くの収穫があり、ネイティブアメリカンたちの温かい行為に感謝して、次の年1621年の秋にワンパノアグ族の人たちを招いて食事をふるまったのです。これが収穫感謝祭の始まりと言われますが、その後は、アメリカ大陸の開拓の中で、ネイティブアメリカンとの悲惨な争いや殺戮の歴史があり、いつの間にか廃れて行きます。240年後、1864年シビルウォー南北戦争が終わりました。国が二つに分かれて争った結果62万人の戦死者を出し、それは引き裂かれた家族の傷痕となりました。時の大統領リンカーンは、国と家族の荒廃を回復するために11月の第4木曜日を収穫感謝祭として国の祝日として定め、国の安寧と家庭の絆の回復を願ったのです。教会でも感謝祭の礼拝を捧げ、人が生かされているのは創造主である神様の愛と恵みによると、感謝をささげるようになります。今では、感謝祭は家族が共に集まり祝う祝日に変わってきていますが、プリグリム・ファーザースが困窮と試練の中で祈り求めた恵みの神様の祝福を感謝するという伝承は受け継がれていることでしょう。
 古来、イスラエルでは聖書にもとづいて収穫感謝祭が行なわれてきた。イスラエルには三大祭りがあり、それは過越しの祭り、仮庵の祭り、五旬節ペンテコステの祭りです。過越しはエジプト脱出の時、最後の神様のみ業として子羊の血をかもいに塗って「裁きの夜」をしのぎ助け出された記念であり、仮庵の祭りはシナイの荒野を天幕で彷徨っていた時、神様に支えられ助けられた事を記念する祭りであったのです。五旬節は大麦の刈り入れが終わり、50日すると小麦の刈り入れが始まる喜びの収穫の祭りである。これはイスラエルが出エジプトし、荒野を彷徨っている時ではなく、カナンに定着して農耕するようになって収穫を喜ぶ祭りとなったといえます。しかし、50日は出エジプトしてから、シナイでモーセが神様から受ける「十の戒め」を授かった記念すべき日です。イスラエルが神様の御心を知らされ、委ねられた日であり、イスラエルが神の民として選ばれた証しの日なのです。
 収穫を感謝すると共に、神の民としての召命を頂いた記念すべき日です。イエス・キリストによって神様の真実の愛と恵みを知ることが出来たのです。そして、その栄光のみ業を知って告白するのです。「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。…主の律法は完全で、魂を生き返らせ、主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え、主の戒めは清らかで、目に光を与える。主への畏れは清く、いつまでも続き、主の裁きはまことで、ことごとく正しい。金にまさり、多くの純金にまさって望ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。」(詩19:1−11)天地創造の神を信じることは「畏れる」ことであり、それは「崇める」ことであるのです。「主を畏れることは知恵の初め」(箴1:7)、神様を信じ、神様を知ることは真実の知識の始まりであるのです。神様の偉大さに出会い、知ることは「自分」を知ることになるのです。その偉大さの前に小さな「自分」の存在を自覚するのです。「あなたの天を、あなたの指の業を、わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。」(詩8:4,5)神様の創造と叡智の前に小さな自分の存在を自覚する時、現実に「謙遜」を自覚することになるのです。そのような小さな者をも極みまで愛し、育み、守られる主であるのです。そこに「感謝」が溢れるのです。都会に住む者にとって作物の収穫は日常から遠いことになるのですが、食事を頂くごとに(神様に)生かされている感動を覚えるのです。「感謝の日」を迎えることによってその命の原点に立ち返り、神様に深い感謝の思いを表わそうではありませんか。
 イスラエルが神の言葉によって御心を知ったように、人は霊の命を受け、神の言葉と創造された自然の中で養われている恵みを自覚して、真実の神様の命の中に生きることのできる幸せを感謝しなければなりなりません。
「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」
(コロサイ3:17)

 

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