2012年 12月9日 礼拝メッセージ 

「喜びの訪れークリスマスの予告」
ルカによる福音書1章26−38節

 日本ではお正月に年賀状を送ります。「おめでとうございます」と書き添えるのですが、何が目出度いのか意味を聞いてもよくわからないようです。この気持ちを一休和尚は「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」という言葉として残しています。
一休は「知恵者」として知られ、その「頓知咄」は有名です。通り一遍の格式や形式を見透かして、その物事の本当の意味を問う禅風として「風狂」の道を目指し、俗に言う破戒僧の道を行ったと言われています。人生の空しさを知っているのです。彼はまた、人生について「世の中は起きて稼いで寝て食って後は死ぬを待つばかりなり」と言っています。だからこそ新年を迎えても「目出度いようで、目出度くない」「喜びがあるようで、嬉しくもない」ということになります。日々の儚さを言い表しているのです。
 クリスマスにはクリスマス・カードを送ります。このカードにはMerry Christmas クリスマスおめでとうと書きます。それはおめでたい日であるのです。キリストのお生まれになった日です。ヨハネの手紙T、4章の9節には「神は、独り子(キリスト)を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」キリストのお生まれになった理由が記されています。私たち人間が、真実に「生きる」為に、生きる力、絆の要、真実の平和に生きるために神様がその御心を示されたのです。「神様の平和」(シャローム)に生きる喜びを与えるためにキリストはお生まれになったのです。「神様の平和」とは、憎しみと対立、不信と分裂、闘争と混乱、懐疑と当惑、偽善と不安の渦巻くこの世界に、真実の平和への解決の道を与えることです。それこそが「生きる」希望であり、その希望の鍵こそは「神様の愛」であるのです。
 クリスマスは神なるイエス様が人としてお生まれになった喜びの日です。日本の風土ではどんな人でも死んだら神になり、仏になると考えます。ここでは仏も神も一緒にしています。死を境にして人はみんな仏になる。そこでは神も仏も一緒なのです。本来仏は悟った人であるのですが、どう見ても悟った人には見えない人でも仏にしてしまうのです。また、仏も神も一緒と思っているのが一般的なのです。罪深く、罪に翻弄される人が神になるとはどういうことかが判然としていないのです。また、森羅万象が神であるとして山や滝を拝む人もいます。日本は古来自然災害の多い風土で、いきなり襲ってくる災害の恐怖と不安を、「祟り」や「因縁」と結び付け、理由のわからない不安と恐怖という心情が染みついているのです。日本の習俗としての心の深層には「不安」と「恐怖」が根付いていることが分かります。「何さまがおわしますかしらねども、ただ有り難さに頭うなだる」という心情は、科学的な知性が発達している社会であるのに人々の心の深層では理屈では説明できない依存心となり、それが意味不明なことに結びつく要素になります。お札を焙(あぶ)って拝むと幸せになる。足の裏で診断してガンを治療する。井戸水をビンに注いでお払いしたら“神水”になって癒されるとか。それを数万円で売り、人々はすがるのです。このことは「いわしの頭 も信心から」といわれることになってしまうのです。これが日本の宗教風土なのです。
 真実の神様はあらゆる自然や存在を超えた創造主であり、存在と命の根源です。神様は単に創造主であるのでなく、「神は愛である」(ヨハネT4:8)であり、「愛」をもって命と創造物を慈しまれるのです。「愛」は「責任」が裏付けられてこそ真実の愛であるといえます。「人を生かす」「人を愛する」(ヨハネT4:9)即ち、人を真実の平和と幸福に生かすということであり、その根源は「神の愛」です。知性や理性を越え、理由を理解できないのが自然の現象であるのです。地を這う幼虫が、成虫になると見事な美しい蝶になります。その仕組の一つが変わる現象を奇跡というのです。人が経験しないことが起こるのが奇跡であるのです。「神にできないことは何一つない」(ルカ1:37)とあります。神様は全能であり、全知であるからこそ神であるのです。
 クリスマスは、神様の奇跡の出来事です。聖書は「いまだかって、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方(キリスト)が神を示されたのである。」(ヨハネ1:18)と言っています。日本では到底神になどなれない罪深く、汚れた人間がごく自然に神になるというのです。それは真実の神様が分からないのです。クリスマスは、神が人になられた。人に真実の平和と永遠の命の道を示し、救うために神が人になられた。そのあり得ない出来事が起こったのがクリスマスであるのです。クリスマスは神の愛の祝福の出来事なのです。
約2012年前(BC4)の一年前、クリスマスの訪れは母となるマリヤに告げられるのです。神の使いがイスラエルの北、ガリラヤの町、ナザレに遣わされるのです。天使ガブリエルはダビデ家のヨセフのいいなずけであるマリヤに告げるのです。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(ルカ1:28)マリヤはこの言葉に戸惑い、何のことかと考えこんでしまうのです。神の使いはさらに言います。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(:31−33)男の子が生まれる。その名を「イエス」、即ち、その意味は「主は救い」と名付けるようにと言うのです。それだけではなく「ダビデ王の王座をもって約束している永遠に変わることのない支配をこの子が実現する」と言うのです。マリヤは「私は、まだ男の人を知らないのにそんなことは信じられません。」と言います。そこでみ使いは答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない」(:35−37)と。マリヤは「お言葉どおり、この身に成りますように」と答えるのでした。聖霊が宿ることを通して、「未だかつて誰も神を見ることが出来なかった」のに、イエスの生涯を通して「神を見る」ことが出来る奇跡こそ、クリスマスの出来事であるのです。
 イエス・キリストは「神は愛である」ことを示されたのです。病める者を癒やし、飢えている人々を養い、孤独な人に交わりを与え、死の恐怖を取り除くために、人々の罪のために犠牲となり、「神の愛」を具体的に示されたのです。奇跡は神様の愛の使信、福音であるのです。イエス・キリストの御降誕は神の御国の予告であり、準備です。愛である神からのメッセージを心に留め、神の愛の恵みを新たにしてクリスマスを待ち望もうではありませんか。

 

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