2012年 12月16日 礼拝メッセージ 

「キリストに出会う備え」
マタイによる福音書1章18−25節

 クリスマスが近づいてきました。クリスマスは御子イエス・キリストのご降誕を祝う日です。教会のイルミネーションも二週間前から点灯しました。ツリーが飾られ、クリスマスリースがブランケット一つ、一つに飾られて、すっかり準備が整えられました。人生には色々な機会があります。冠婚葬祭を始め、卒業式、入学式、入社式などそれぞれの場でその時に相応しい準備が整えられます。近年、と言ってもだいぶ前から中学校などの卒業式でいつも問題になるのは服装の多様化です。茶髪が問題になったり、服装がだらしなくなって、育友会でも色々な苦情が出ることがあります。ロンドンの女子柔道の金メダリスト松本薫が帰国後、新宿御苑で開かれた園遊会に招かれました。彼女の試合の時の形相はオオカミに似た激しさがあった。マスメディアからは「野獣」「野性児」などと呼ばれ、「精悍」を越えて野性獣の形相でした。しかし、秋の園遊会での天皇や皇后にお会いする場では、振袖に身をつつんだ美しい女性の顔、姿で全く別人であるのです。そこにはレスリングのメダリストの吉田沙里の振り袖姿もあったのです。あの試合の様子からは想像できない和服姿の美しさがそこにはありました。おそらく天皇にお会いすることの緊張感と、光栄と名誉が交錯する複雑な気持ちで金メダルの喜びを新たにしたことであろう。天皇や皇后にお会いする時には、その場に相応しい服装や心の準備をすることになります。
 クリスマスはイエス様の御降誕を祝う日です。イエス様にお会い出来る日であるのです。イエス様の御降誕なくしてキリスト教はあり得ないのです。クリスマスはキリスト教の基礎的な出来事です。「祭り」であるのです。「祭り」は祭り拝むことを意味するのですから、「礼拝」です。三人の賢者が東方からユダヤにやってきました。ユダヤの伝承と占星術を通して「救い主」がお生まれになる事を確信し、「星」に導かれ、ユダヤに伝わる「救い主の伝承」を王宮に訪ね、律法学者たちの助言でベツレヘムに導かれるのです。そして家畜小屋でマリヤより生まれた「イエス様」に出会うのでした。そして、黄金、乳香、没薬をささげ、神の御子であるイエス様を礼拝するのでした。これが初めてのクリスマス礼拝であるのです。「祭り」はその出来事を思い出し、繰り返して「記念」する事です。この、記念するという原語(ギリシャ語)は、アナムネーシスといって、過去の出来事を正に、今ここで体験していることを意味します。イエス様がお生まれになった喜び、母マリヤの喜びの中で、ヨセフは聖霊による夢の御告げを思い巡らしていたのです。「生まれる子に“イエス“(神は救い)と名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うであろう。」と語る天使の言葉を思いだしていました。不思議なことにそこに三人の賢者が東の国から来て、黄金、乳香、没薬を捧げて礼拝するのでした。イエス様がお生まれになった夜、ベツレヘムの近くで野宿をして羊飼いがいました。突然、天から栄光の光が差し込み、御使いの声を聞くのです。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(ルカ2:11)「救い主」がお生まれになったと言うのです。そしてその方は、「主メシヤ」である。「油注がれた」方、「神」そのお方がお生まれになったというのです。彼らもベツレヘムに向かうのでした。「飼い葉桶に布でくるまっている乳飲み子を見る。」という御告げを聞いていた羊飼いは、実際に言葉通りであったので驚き主を崇めるのでした。マリヤとヨセフは聖霊の御告げの真実であることを深く心に留めたのです。
 主イエス様はメシヤとして、その生涯の中で人々に神の義と愛を語りました。神様が愛であるがゆえにどのような罪であっても、「悔い改め」るならば「赦される」というのです。自分の罪を公に言い表すなら、「神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(ヨハネT1:9)イエス様は神の愛と赦しを語り、その罪の償いとなられたのです。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償う生け贄として、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネT4:10)クリスマスはイエス様が降誕されて、その生涯は人類の罪を贖う為にあり、十字架で血を流し死なれたことを思い仰ぐ時です。そして死から甦り、永遠の命の保障となられたのでした。イエスが昇天される時、弟子たちは神の御使いの言葉を聞くのでした。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒1:11)更にこの言葉は、初代教会にイエス様の再臨を救いの完成の時とし、確かな信仰の希望として伝えるのでした。「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」(ヘブル9:28)この約束を待ち望むことこそ、クリスマスのメッセージであるのです。主イエス様がお生まれになった出来事は、再臨を待ち望むという記念の時としてこそ、初めて、キリストにある救いの喜び、永遠の命への確信を新たにできることを忘れてはなりません。クリスマスこそ、信仰による救いの喜びを新たにし、日々の生活の中で纏わりつく様々な罪と汚れを悔い改め、主の十字架を見上げてキリストにお会いできるという希望の時とするのです。オリンピックのあの選手たちが厳しい戦いの壮絶な表情から、勝利の栄光を陛下に語る時、その時に相応しい衣装に変えるように、罪と汚れの日々の戦いから生還する時、クリスチャンに差し出される十字架の救いの衣を新たにすることを求める時となるのです。クリスマスはキリストがくださる救いの恵みを新たにする記念の時であるのです。
 第一に、イエス様にお会いするクリスマスを迎えるにあたり、キリストの救いの基本に立ち返ろうではありませんか。十字架の救い以外には救いの道はないことを確認することです。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒4:12)イエス様に道以外には救いの道はないことを確信しなければなりません。主イエス様もヨハネによる福音書14章6節で「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』」イエス様が真理であるからこそ、命即ち、永遠の命に至る道であるのです。その他に救いはないと言われているのです。
 第二に、人間は、何かにつけ過去を引きずり、支配されていることから解放されないものです。人の心には顕在意識と潜在意識があるように意識していない自分が変わらないと真実の生まれ変わりとはいえません。使徒パウロは「わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。」(エフェソ4:17,18)と強く奨励するのです。イエス様を信じない人々と同じ道を歩むことを戒めているのです。彼は続けます「無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(:19−24)先ず、思いを根底から変えられることこそが新生の経験であるのです。
 第三に、ではどのようにしたら口先だけの信仰でなく、古い人を脱ぎ捨てることが出来るのでしょうか。「古い人を脱ぎ捨てる」ことは神様の命、力、即ち、聖霊によって変えられることです。それは「祈り」によって貫徹されるのです。生きた信仰は祈る信仰です。先ず、祈りは神の言葉、聖書を読むことであるのです。聖書を読むことは、神様の言葉を聴くことにあります。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ロマ10:17)信仰に目覚め、成長するのは、イエス様の言葉によるのです。何にもまさってイエス様の言葉としての聖書を聴くことが初めであるのです。そこから真実の信仰が生まれ、生ける信仰となり、「祈り」が生まれるのです。キリストを信じることはキリストに従うことです。従うという意志は、祈りによる聖霊の命によって生きるものとなります。
キリスト以外に何も見えない、見ない信仰こそが大切であるのです。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピ4:13−14)
クリスマスを迎えるにあたり、この準備が必要であるのです。クリスマスを心から祝うために、信仰の基礎を建て直そうではありませんか。

 

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