2012年 12月23日 礼拝メッセージ 

「愛と平和のクリスマス」
ヨハネによる福音書1章1−5節

 クリスマスは神様が約束された平和に生きる、希望の時です。そして、その平和の鍵は神様の愛にあります。20世紀は血の世紀であると言われました。戦争に次ぐ戦争、ヨーロッパの政争の混乱から世界大戦が始まり、低開発国の植民地化を通して列強の争奪戦が世界を席巻したのです。西洋に誘発されて、日本も遅れじと埴民地化阻止と共に大陸に侵攻して幾多の悲劇を生むことになります。そして、第二次世界大戦は日本本土への原爆の焦炎で閉じることになります。誰が戦争を望むのでしょうか。為政者は時の流れの中で人の命と平和を犠牲にするのですが、一人一人の人間は、憎しみ、対立、騒乱と恐怖からの解放を願ったに違いありません。
20世紀の初め、ヨーロッパの列強は複雑な同盟対立関係にありました。サラエボ事件をきっかけに各国は軍部の総動員を発令して世界大戦が始まるのです。植民地制覇の競合に拍車をかけ、イギリス、フランス、ロシアとドイツ、オーストリア、イタリアなどが対立したのです。時あたかもベルギーのフランダース地方で兵士たちが塹壕を挟んで激しい銃撃戦を繰り広げていました。そんな状態で迎えたクリスマス。ドイツの兵士たちが、ささやかなお祝いをするためドイツ語でクリスマスキャロルを歌い始めました。すると、どうでしょう。その歌に応えるように、イギリス陣営から英語のクリスマスキャロルが聞こえてきてくるではないですか。これを機に自発的に停戦命令が出され、お互いが顔を合わせました。手を握り合い、死者を埋葬し、チョコレートや酒、タバコなどの配給品の交換までなされたのです。そして気がつけば、脱ぎ捨てられたヘルメットがゴールポスト代わりになり、サッカーの試合が始まったのです。先ほどまで銃を向け合っていたドイツとイギリスのあいだの試合です。結果は3対2でドイツが勝ちました。
イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスの日。主の御手が働かれた瞬間です。そんな奇跡のような出来事が、ヨーロッパの幾つかの場所で起きたのです。結局その日は、いたるところでサッカーの試合が楽しまれました。後にこの事実は“クリスマス休戦”として知られるようになりました。
近年では、2005年にこのうちの一つの“クリスマス休戦”の実話をもとに「戦場のアリア」という映画がフランスで作られ、同年のフランス観客動員数1位に輝き、アカデミー賞のフランス代表、カンヌ国際映画祭にも出品されているのです。
 神様の御心は平和であるのです。平和は、愛し合うことによって実現するのです。愛は勇気です。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」(ヨハネT4:18)憎しみと対立、いつ果てるとも知れない恐怖の中で御子イエス様の御降誕を思い、賛美を歌う時、現実の罪深い人間の闇を越えて平和の光が差し込んできたのです。神を忘れるところに闇は覆います。
 「神を見た者はいない。」(ヨハネ1:18)しかし、「父の懐にいる独り子である神、この方(イエス・キリスト)が神を示されたのである。」と言っています。命と存在の根源である神が、「この世界を神の言葉によって創造された。」(ヘブル11:2)のです。正に、「言」こそ命の根源であるのです。聖書は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(ヨハネ1:1−3)この「言」はロゴスというギリシャ語であって「理性」を表します。そして、他方では「霊」をも意味します。神様を霊的な超越した存在だけではなく、すべての存在の秩序を構成する「知性」として表しています。創造されたすべての自然と命は、神様の理性と霊性に根源があるのです。理性と霊性の中心的な命こそ「神の愛」であるのです。聖書は神様は人を「神に似せて造られた」(創1:27)と言っています。それは「神様が愛である。」(ヨハネT4:8)ということです。人間の存在は「愛」に生きる時にその目的を達成するのです。「人間は愛である」ということが真実に生かされるところに神様の約束の平和が証しされるのです。神様は、愛によって創造された人と自然を完全な調和で保つように約束されていたのです。人は神様を忘れ、知性と自己願望の奴隷となりました。神様の光は消え、その命は失われました。そこに闇が覆うのです。神の愛を見失い、欲望と自我の充足を求める坩堝の闇に翻ろうされる果てしない時が続いているのです。神の預言者は神様の愛の極限を言い表しています。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。」(イザヤ49:15)神様の愛の真実の叫びであるのです。愛は責任をもって真実を証しするのです。
 人々の闇の悲劇を解決するために、あり得ないことを神様はなさいました。「言(神様)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子(キリスト)としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1:14)イエス・キリストが生まれ、見えない神様を見えるようにして下さったのです。イエス・キリストは「恵み」即ち、神様の愛の現れです。まぎれもない真理、即ち、真実に裏付けられた愛をもって人の惨めさと悲惨さを自覚させ、悔い改めさせて闇の罪から解放される道をお示しになったのです。「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』」(ヨハネ14:6)「言」の内に「命」があった。「命」は、人々を救う「光」であるのです。「光」は神様の「愛」であるのです。(ヨハネ1:4)
クリスマスは、人々が真実の神様の愛に生きる希望を与えられた喜びの時であるのです。「神様の愛」はキリストによって示され、差しのべられた希望の光の時であるのです。真実の神様の愛が輝く時、それがクリスマスです。殺し合いの戦争の中でもキリストが人々の心に入れられる時、共に歌い、共に交わり、共に交流する喜びと楽しみの時となるのです。主イエスを見上げ、主イエスの愛を生きる時、調和が回復し、平和が覆うのです。主イエスに栄光あれ、主イエスに栄光あれ!!!
「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの“イエス・キリスト”名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒4:12)

 

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