2012年 12月30日 礼拝メッセージ 

「溢れる恵みと感謝」
マタイによる福音書18章21−35節

 年の瀬を向かえると何かとあわただしく感じるものです。一年の終わりには一年のチリを掃き清めて新年を迎えようとし、日頃散らかっている部屋を掃除するという習慣もあります。会社でも工場でも綺麗にします。江戸時代は経済的な仕組が違う時代でした。庶民の買い物は大抵は現金払いではあるのですが、日常の生活や取引などは盆と正月の二季払いであって、とくに年末は一年の買い物代金を支払います。取る方も取り立てに駆けずり回り、返す方もなんとか返そうと金の工面で駆けずり回るのです。借金を滑稽に語る「掛け漫才」が流行ったといいます。樋口一葉の「大つごもり」という作品は、「お峰」という少女の年末の借金の返済にまつわる悲しい物語です。2円のお金が工面できない悲しさを巡る物語であるのです。病弱な伯父の生活苦のために借財をして、その利子の2円だけ払えば年を越せる設定であるのです。彼女は裕福な家に女中として勤めていて、女主人からお金を都合してもらえる約束をして大晦日を迎えるのですが、そのようなことは約束していないと断られます。そのうち女主人が外出します。家の引き出しにはお金があるのを知っている「お峰」は手を出して2円を取ってしまいます。その時、家出している放蕩息子が急に帰ってきてそれを知るのです。父親は厄介者の息子が帰って来たのでお金をやって追い払おうとし、彼は出て行きますが、お金の入っていた引き出しには「残りも拝借候」と書きつけを残して去るのです。
 この物語は「人」が負債を背負うことで起こる「罪」の連鎖、その罪を通して人間としての善悪の本質が何かを問うているといえます。善意の娘「お峰」は困窮を救う為に2円を盗む。極道息子の石之助、しかし、彼の犯す罪こそ守り本尊となると言う。善意が罪を犯させ、その犠牲が人を助ける贖罪。金を貸さない合法的な無慈悲、無罪は無慈悲であると言う指摘でもあるのでしょうか。この作品は、人間性としての無慈悲が義であり、慈悲が罪である現実を指摘しているようです。
 人は、強欲、自己中心の罪悪によって生き、善意さえ罪悪によって生み出されるという悲しい現実からどうして解放されることが出来るのだろうか。生きる上での矛盾が限りなく見えるのです。聖書の「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方(キリスト)によって神の義を得ることができたのです。」
(コリントU5:21)罪のない方が、私たちの罪となって下さったのです。そこに神様がキリストにおいて表して下さった「救い」「解決」の道があります。罪を犯さずには生きて行けない人間を罪から解放して下さったのです。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネT4:9,10)
 様々な国に“ありがとう”という言葉があります。日本語は「有難とう」と書きます。“あり得ないことがある”ということになります。“起こりえない”ことが起こった。だから“すみません”ともいうのです。そこで「感謝」するということになります。よく考えてみると「謝る」を「感じる」と言うことになります。「謝る」は「過ち」をおかしたときに使うものです。「すみません」も「謝る」言葉に通じるのです。中国語は“謝謝”であるのですが“どういたしましては“不要謝”と言うことになるらしいのです。 好意を十分理解していない、思いを越えた、知りえない好意を気付かずにいる申し訳なさを表しているのが「感謝」と言うことになるようにみられます。神様の計り知れない恵みを悟れずにいる「申し訳なさ」を表すことであろうと言うことです。マタイによる福音書18章21以下に、王に多額の借財を赦された人の、僅かな借財を返せない仲間を赦さないという不届きな無慈悲さを指摘しながら、神様の赦しが如何なるものであるかを教える例話があります。
ペテロがイエス様のところへ来て「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか。」と尋ねるのです。ペテロは尋ねながら、常々、「人を愛し、人を赦せ」と言われる言葉に対して完全な答えであると確信して、わざわざ「7回ですか?」と尋ねます。自分の答えは間違っていないという思いをもっていたと解釈できます。しかし、イエス様はここで「7回どころか7の70倍まで赦しなさい。」と言われるのです。7という数字にはイスラエルでは聖書の伝承にもとづいて「完全」を表す意味があるのです。それだけ赦したらいい、それ以上のことは処罰されても仕方がないという線引きの意識であると言えます。イエス様は、なお「7の70倍」と言われるのです。490回赦すことを意味します。これは数字を越えた無限を言い表しているのです。そこでイエス様は譬を語られるのです。家来達が王様から借財をした。その決済をしようとすると、なんと1万タラント借金している家来がいたのです。当時のイスラエルの貨幣単価の、1タラントは6千デナリ、1デナリは労働者に日給であったのです。今のお金では比べられませんが、日本のアルバイトの時間給が8百円とすると3億8千万円になると言えるのです。そこで家を売り、家族も売り払って返済することを求められるのです。その家来は、少し待って下さい。必ず返済しますと懇願するのでした。王は哀れに思って、彼を赦して借金を帳消しにしたのでした。しかし、その家来も仲間に百デナリ貸していたのです。1デナリは約8000円です。80万円貸していることになります。それを取り立てようとして返せと迫り、待ってくれと懇願する仲間を引っ張って行き告訴して、許さずに“牢”に入れたのです。これを見聞きした他の仲間は王様に訴えました。王は「お前を憐れんで許したのに、なぜ仲間を憐れまないのか」と激怒してその家来を返済するまで投獄しました。そしてイエス様は「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(マタイ18:35)と言われました。この譬を通して「人間は赦されなければ生きて行けない」、救いはないことを教えているのです。生かされている喜び、生きる希望、支えられている自分を自覚しないで過ごすとすれば、それは当り前の事となり、感動も、喜びも生まれ得ないのです。莫大な借財を帳消しにされたことを忘れ、人への「憐れみ」の心を失うことへの理不尽、人間性の許されることのない劣化に注目させているのです。
 イエス様を通して父なる神様の恵みと愛を体験し、認識することは真実の人間性を回復することに他なりません。日本人にとって「神」は「八百万の神」であって何でも神となります。それを汎神論と言います。自然の中に神が存在するというものです。ですから石ころから山や滝、古木を御神体とする。今日的な知性的な信条からすれば滑稽ではあるのですが、長い間に植え付けられている日本の心情は、一向に理不尽であると感じないのが現実であるのです。初めて聖書は中国で19世紀の初頭に英国の宣教師によって翻訳され、色々な議論を経て「神」ということばになったのです。日本語に訳す時に「神」ということばは日本にすでにあったので、そのまま訳された経緯があるようです。聖書の神はヤーウェー「ある」(ありてある者)と言います。全ての存在と命の根源である創造主であるのです。創世記の創造の記録には、神様は人が生きることが出来るよう自然を完成して、最後に人を創造されたのです。人を生かし、育む自然を整えられたというのです。神様の創造は「神様の愛」としての存在を証拠立てています。神様を知らなかった人が、イエス・キリストを通して活ける創造主なる父としての神様に出会い、信じ、受け入れた時に、創造主にして愛なる神様が如何にいとおしみ、愛して生かし、育て、支えて下さったのかということを認識するようになるのです。美しい山や、大海原の壮大な景観に感動するようになるのです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケ5:16−18)キリストを信じて真実の創造主に支えられ、生かされている自分を発見する時、そこに「喜び」が、「感謝」が満ち溢れるのです。そしてどのような時も「祈り」、神様の励ましと導きの内の勝利することが約束されているのです。 考えられない、思いもつかない自分をイエス様に出会った時に発見するのです。本当の幸せな救いの道が備えられていることを知らずに、神様を忘れ、神様から離れていた惨めな自分を徹底的に愛し続けて下さったことを「感」じ、「謝」るのです。感謝の生涯へと変えられたのです。2012年も終わります。この年も多くの主の恵みを受けた年でした。それを深く感謝し、新たな希望をもって新年を迎えましょう。

 

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