阪神チャペルセンター
召天者合同追悼記念礼拝


2013年9月22日 午前10時30分

於 阪神チャペルセンター礼拝堂

イエスは言われた。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

ヨハネによる福音書11章25-26節




メッセージ

「永遠の命に生きる家族」
コリントⅡ4章16-5章7節


     
    「暑さ寒さも彼岸まで」と言います。今年は異常気象で長く暑い夏でした。春分の日、秋分の日と年に二回彼岸の日があります。彼岸は中日とも言って、太陽が真東から昇り真西に沈む日を言うのだそうです。中日を挟んで前後3日、即ち7日を彼岸といっているそうです。日本では春秋分の日は国民の祝祭日になっています。日本独特の伝統と習慣でお墓参りをします。インドや中国の仏教の習俗にはない、日本の歴史の中で伝承されて、仏教や日本古来の自然信仰と融合したと言われています。彼岸は川を想定したもので、彼岸に対して此岸(しがん)と言い、川の両岸を指しているのです。こちら側を煩悩に苦しむ現世とし、それに対して向こう岸は悟りを開いた涅槃の地ということを仏教では言います。ですから彼岸の日には太陽が真っ直ぐに西、即ち、浄土に落ちて行くので、祖先を思い墓参りをする習慣となったのです。また、春分は太陽を迎えて作物を植え、秋分には太陽の恵みで刈り入れを迎えることから自然への感謝の時として祝うというのです。ですから彼岸は、又「日願」であるとも言われています。それは日本古来の自然崇拝と交流して国民的な祭日になっているのです。
 教会では春分の日に近い復活祭と、秋分の日を前後して召された家族を追悼する記念会をします。そして祖先から連綿と続く命の尊さと、家族と共に育てられ、助け合う愛の絆、人間の最も大切な命、家族の愛を分かち合う時としています。
 人は誰でも、どのような人生を送っても死で終わります。死は決定的な別れとなります。パスカルは、「人間は考える葦である」と言いました。古来、人は何故生きるのか、なぜ死ぬのかを考えて来ました。安心立命を求めてきたのです。しかし、現実は矛盾と困難、迷いと苦悩が続くことが多いのです。死に直面して何故死ぬのか、死なねばならないのか、死後のことはどうなるのか、という問いが続きます。仏教では“諦めが肝心”といいます。すべて諦めることで道がひらけるというのですが、実際は「蹄観」とは「真理を悟る」という意味です。如何なることであっても、自分で納得して進むことが出来る。言換えれば物事に“執着しない”事であって、何事にも捕らわれなくなるということです。しかし、これもやはり“諦め”に行きつきます。そこには解決がなく、克服もなく、勝利もないのです。そこで日本の高僧である法燃や親鸞は、悟りを開けない人でも仏《悟った人》の慈悲を表す如来を信じて、慈悲にすがれば悟った人と同じになって、死後は極楽浄土に行けると教えたのです。このような教えの中からは、根本的な人権意識に基づく真実の人の貴さの芽生えは生まれてこなかったのです。
 聖書では、神の国、天国はいつ来るのですかという問いに、イエス様は「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:20,21)と答えておられます。神様の国、天国は死後の世界だけの問題ではなく、過去、現在、未来にあるということになります。ヨハネによる福音書の3章16節で「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とイエス様は言っておられます。「永遠の命」こそは、神の国、天国の命です。天国は彼岸にあるのではなく、確かに彼岸と此岸に別れているようですが、それを分離している川こそ見える世界と見えない世界なのです。その見えない世界が見えるようになる道こそ、イエス・キリストによって神様が備えて下さる救いの橋です。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(Ⅱコリント4:18)「見えるもの」とは、「外なる人」見える存在としての体です。「『外なる人』が衰えても落胆はしない」(4:16)というのです。「『内なる人』は日々新たにされていく」と言われます。確かに、人は年と共に衰えます。しかし、見えるものによって様々な試練や苦しみがあったとしても、「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。」(5:4、5)と使徒パウロは言っています。
 第一に、創造主なる神様を信じる信仰は、永遠の命に生きるのです。いや、どのような人も神様を信じる霊的能力を持っているのですが、神様を信じない時にはそれが失われ、死んでしまっていることになります。「外なる人」だけが生きていることになります。「永遠」は始めもなく、終りもないのです。神様は永遠であるのです。イエス様が「神の国はあなた方の間にある。」(ルカ17:21)と言われているように、私たちの真近にある、言換えれば「いつも、わたしはあなた方と共にいる。」(マタイ28:20)と言われていることで明らかであるのです。神の国は今現在、生きるところに活ける神は共にいて下さるのです。神の国、天国とは神の存在されるところです。
 第二に、信仰を持って神の国に召された神の家族は、確かに姿は見えないのですか、「内なる人」、即ち、霊的な存在として生きて、今、現在の家族と共に神様にあって語り、祈り絆に結ばれているのです。活ける神様を信じる信仰は、召された家族と共に賛美を捧げ、祈りの内に家族愛に生かされてきた思い出を感謝して神様を誉め讃えるのです。思い出し、心に留めることこそが“記念”であり、礼拝であるのです。イエス様は「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハネ11:25)と言われました。「死んでも生きる」、確かに、人には死という終わりがあります。しかし、イエス様は復活の主として,生前、死んでも3日目に甦ると幾度も語られました。誰も信じられませんでした。傍で仕えた弟子達も信じることが出来なかったのでした。しかし、現実にイエス様は甦られました。そして幾度となく弟子たちに現れ、多くの人々に現れて実証されたのでした。そして聖書は「死者は朽ちないものに甦り、私たちは変えられるのです。」(Ⅰコリント15:52)と約束しています。時が来るとイエス様は再び来ると約束されています。その時、死せる人々は甦り、神様によって新しい天地創造が再現されるのです。「私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」(Ⅱペテロ3:13) 
 今や、地球物理学でも宇宙の終わりが来ることは定説になっているのです。そして神を離れた現実の知性先行の世界は、自然を支配し、自己破壊の悲劇を歩み続けているのです。愛と命の根源である創造主なる真実の神様を忘れた罪深い生活の報いは破滅に終わるのです。聖書ははっきりと言います「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ロマ6:23)
 永遠の命に生きる家族としてイエス様を思い、神様にあって祝福に生き、礼拝する家族でありましょう。
 第三に、イエス様は弟子たちに祈りを教えられました。「天にまします我らの父よ ねがわくは御名をあがめさせたまえ。御国をきたらせたまえ。 みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らをこころみにあわせず、悪より救いいだしたまえ。国とちからと栄とは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン」(マタイ6:9-13をもとに構成された現在の「主の祈り」)前半に基本的な祝福の根源が祈られるのです。その一つは「御名を崇めさせたまえ」そして「御国をきたらせたまえ」、そして「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」に祈りの基本が示されています。それは神様が共にいて下さる恵みをしっかりと見届けられるようにという願いであるのです。神様の名を、即ち、神様が創造され、神様の偉大さと愛の御心を示されている、その恵みを忘れることなく感謝し、賛美することを通して神様を「崇める」、礼拝するようにという祈りであるのです。次に「御国をきたらせたまえ」御国、即ち、神様がおいでになる、支配されている愛と恵みがしっかりと自覚でき、神様が共にいて下さることをいつも自覚出来るようにして下さいということです。そして「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」ということは、“天”、即ち、神様が共におられる現実、「神の国」が今この現実に実現出来ることを自覚させて下さいと願い祈るのです。主イエス様は「あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)と言われています。地獄のような現実の中でも神様は共にいて、「わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。」(ロマ8:37口語)と使徒パウロは告白しているのです。神様から与えられた命、連綿と続く祖先により受け継ぎ,育てられた命、一人一人の命は限りなく尊く、その家族の絆は重く、尊いものであり、神様の愛に生きる信仰によって今も共に生き続けていることを心に留め、感謝を捧げ、受け継いだ命を大切にし、イエス・キリストによって与えられた信仰を伝えなければなりません。家族の祝福のために。

 「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」
 
  (Ⅰヨハネ5:4,5)   
       




召天者合同追悼墓前祭

2013年9月22日 午後3時
 
於 和田寺霊園(教会共同墓地)

   

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