2013年 1月6日 礼拝メッセージ 

「苦難を後にビジョンの出立」
ヨシュア記1章1−9節

 元旦に生垣のサザンカが一斉に咲き始めました。身の引き締まるような寒い朝でした。生垣は家の北側にあって日が当らないので、何を植えても花が咲かないのです。一昨年、垣花兄がこのサザンカなら咲くと植えて下さいました。見事に咲くのです。このサザンカを見ながら神様の恵みと教訓を学ぶことが出来ました。日陰であろうとも、寒い時であろうとも咲くのです。咲くように命付けられているとしか言いようのない不思議です。言換えれば、冬至が過ぎれば咲き始める。春を迎える花とも言えます。そのように造られているとしか言いようがないのです。このような自然の不思議の中に、神様を信じてキリストによって接木されているクリスチャンの霊的な恵み、キリストによって与えられている命の不思議と力を見ることが出来るのです。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:5)「あなたがたはその枝である」とあるように、キリストを信じるということは、枝としてその幹につながる者とされているのです。「その人は豊かに実を結ぶ」と約束されているのです。身も凍えるような日々の試練の中で、苦悩する病の中で、戸惑いと狼狽の時にも、その中で花を咲かせて下さると約束されているのです。
 2012年は日本の社会にとって、経済的な混乱と疲弊感と共に、政情の不安、打ち続く災害の襲波で、一人一人の生活においてもそれぞれが試練の年であったと言えるのです。しかし、2013年が明けました。新しいスタートです。新しい政権が生まれ、デフレ克服の政策が取られようとしたとたんに経済界は反応し始めている。自信をなくした時には,暗い、否定的な、無気力な気持ちが心を覆うのです。しかし、イエス様は「あなた方は豊かに実を結ぶ」と言われるのです。キリストに結ばれていることは「キリストに選ばれている」ということを忘れてはならないのです。その言葉は続きます「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」と言われるのです。神様の選びは、不変の恵み、絶対的な約束であるのです。この信仰に立つクリスチャンにとっては「 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」と言うことが出来るのです。そして、「わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。」(:37口語)と告白することが出来るのです。
 イスラエルの人たちは、エジプトから脱出することが不可能であったのですが、主が起こされた数々の奇跡で困難と危機を乗り越えてきました。モーセがピスガの山で召されて、その働きはヨシュアに継承されました。いよいよ約束の地カナンに入ろうとする時、ヨルダン川を渡ることになりました。時は春、刈り入れの時期は水が満ち溢れる季節であったのです。堤を越えんばかりの水嵩にイスラエルは戸惑い、渡り得ないと恐れました。勿論、橋もなく舟などあるはずがない。イスラエルの人々の内、ヨシュアとカレブを除いては成人ではエジプト生まれの人はいませんでした。出エジプトの虐待の苦悩を知り、恐ろしい迫害から奇跡の解放を知っている人はいなくなっていたのです。ヨルダン川を目の前にして途方にくれる彼らの前で主のなさった一部始終の救いのみ業を思い、神様の前に祈るのはヨシュアであったのです。彼は祈りました。そして御言葉を聴くのです。「わたしがモーセと共にいたように、貴方と共にいることを、すべての者に知らせる。」(ヨシュア3:7)という言葉でした。[契約の箱(神の言葉)]を担いで川に立ち止まるようにと命じられたのです。契約の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川に入ると水はせき止められるであろうと言われるのです。
 満ち溢れんばかりの川の水を目の前にして、契約の箱を担ぐ祭司たちの足が水際から踏み入れると共に、水は遠く上流で遮られ人々はその川を渡りきるのでした。神様の言葉に従ってその最初の一歩を踏み出した時に道が開けたのでした。一歩が無くては道は開けないのです。信じて踏み出す。そこに奇跡が起こることを教えているのです。この新しい年に第一歩を踏み出そうではありませんか。約束を信じて約束の地カナンを目指したように、踏み出す信仰の第一歩が鍵となるのです。2013年に目指す明確なビジョンを祈りの内に与えられて、第一歩を踏み出そうではありませんか。神様の民、神の子供として選ばれている私達には確かな神様の約束があるのです。
「モーセと共にいたように、貴方と共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。…ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。 この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」(ヨシュア15−9)
 目の前の現実に立ちすくむイスラエルはヨシュアの言葉に従いました。契約の箱を担ぐ祭司たちが無言のまま第一歩を踏み出した時、流れる水はせき止められ始めたのです。出来ないとたたずみ、考えて一歩を踏み出さなければ何事も起こらなかったのです。R・シューラーという牧師に「いかにして自分を実現するか」という著作があります。65年も間のことですが、当時、カナダとユーヨークを結ぶ鉄道は夢であったのです。それはナイアガラから流れ下る切り立った60メートルの断崖の激流の間に、つり橋を渡そうと言うのです。当時の技術としては大河に巨大な鋼鉄線を渡すすべがなかったのです。セオドア・エリオットという技師が懸案を解決したのです。それは吊り橋工法でしたが、強大な鉄線をわたすのにどうするのかといぶかりました。しかし、彼は冷静に子供たちに凧あげさせようとしたのです。彼は凧揚げ大会を計画して、子供たちに10ドルの賞金をつけたのです。当時のお金では相当な額でした。多くの子供が集まりこちらの岸から向こう岸に風を見計らって上げるのでした。なかなかうまくいかないのですが、賞金を目当てに子供たちは夢中になりました。やがてウオーマー・ウォルシェという子供が風にうまく乗せて対岸に凧を着地させたのです。対岸で待ち構えていた人が受け取り、その細い綱にもう少し太いロープを結び、対岸に引き渡し、またもう少し太いロープを結び、それを繰り返して、最後は吊り橋の最後尾のロープを引き渡したと言うのです。そして念願の工事が完成したのです。
 私達には目前の環境に可能性を見失うことがあります。「出来る」という可能性を「信じる」第一歩が、道を開くことになることを教えています。
 第一に、ビジョン、目標を明確に見定めることです。出来ると信じること。キリストによって全能の神様を信じることは、常に「信じる」ことによって「可能性」「希望」を生みださせて下さるのです。「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」(フィリピ2:13)それは確かに「主が共におられる」という約束があるからです。
第二に、そして力強く「あなたを見捨てない。見放さない」いう約束が続くのです。この裏付けがあるからこそ、信じられない困難の中にある時にも希望を失うことがないのです。
第三に、神様の言葉を信頼し「昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。」と約束されているのです。「失敗は成功のもと」という諺があります。キリストを信じる信仰において真実であるのです。だから、時として迷い、苦しむ時にもキリストの言葉を信頼し、キリストの言葉に生きる時にこそ、わたしたちを愛して下さった方によって、
「わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。」
(ロマ8:37口語)のです。
新しい年を発展と勝利の年にしようではありませんか。

 

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