2013年 1月13日 礼拝メッセージ 

「ゴールへの克服の手立て」
エフェソの信徒への手紙4章1―6節

  お正月の風物詩に関東の大学箱根駅伝があります。それぞれの学校の名誉を担って走る選手の姿に感動するのです。それぞれの選手の走りは一生懸命で手抜きは出来ません。トップを走るランナーの爽快な走りを声援しながら、後続の選手の必死の走りにガンバレ、ガンバレと声援を送るので

をするようにと、どの選手にも心をかけるのです。またシード校争いの疾走に深い共感を覚えるのです。この競技を見ながら新年2013年の日々のコースに思いをはせるのです。私たちの教会の目指すゴールは、主が教えられた祈りに告白されているように、「御名があがめられますように」(マタイ6:9)ということに尽きるのです。世界が神の臨在に輝き、自然の中に調和が与えられ、すべての者が平和の訪れによって心からの喜びに溢れ、造られた者を生かして下さる神様の恵みとその力を、生きとし生ける者が「その御名」を賛美する時がゴ―ルであると言えるのです。それは人の心に神様の御心が受け入れられ、「神の国が地に実現するように」という祈りであるのです。イエス様を信じる人々が神の国の実現を願いながらも、実際には完全には成し遂げられえないのです。それでも一人でも多くの人がイエス様の福音によって「御心が実現するように」と祈り願う努力がなされて行かなければなりません。「人にはできないが、神には何でもできる」(ルカ1:37)というお言葉通りにその完成は神様がされることであるのです。しかし、世界は人々の欲望と貪欲による闘争から自然は破壊され、築く冨に翻ろうされ、争奪と戦乱の混沌の中で終末を迎えるという予測を誰が否定し得るでありましょうか。
 イエス様は「御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから終りが来る。」(マタイ24:14)と言われています。世界の歴史は神の国の福音が全世界に伝えられてから“終わり”が来ると予告しているのです。神様のみ手によって新しい世界の再創造がなされると予告します。「新しい天と地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。…神が人と共に住み、人は神の民となり、彼らの涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示21:1−4)と聖書は予告しているのです。現実の世界において人の営みは果てしなく悲観的であるのです。しかし、神様は、時至って必ず、回復の再創造を約束されているのです。ですから私たちは神の国の実現の時に備えて、神様の御心に生きる人として、その時を待ち望んで生きなければなりません。先に救われた者は、一人でも多くの人が唯一の救いの道である御子イエス・キリストを信じるように、キリストを宣べ伝えて、罪から贖いだして下さる「福音」に希望を見出し、希望に生きられるようにするのです。このゴールの一区間としての今年のなすべきこととしては、人々のために「祈る」ことであり、福音を「宣教」することを挙げています。これは極めて当たり前の事ですが、クリスチャンの基本的で最も大切な事であると言えるのです。あらゆる祝福の鍵は「祈り」にあります。「多くの実を結ぶこと」(ヨハネ15:5、16)はイエス様が約束していて下さるのです。それには「わたしの言葉にとどまるならば」という基礎的な提示があります。イエス様を信じる信仰は「御言葉」に生きることであり、従うことであり、「御言葉」を実践することであるのです。そこに成長と発展が約束されているのです。それには二つの側面があります。その一つは、成長したクリスチャンとなることです。その二は、伝道する人に成長し、人々をキリストに導く人として用いられることです。神の国は人の心の中に蒔かれて成長します。それこそが福音を伝える伝道であるのです。このことによって教会は成長し、発展すると言えるのです。
 また、教会の目指す目的、祝福の実現は「一つになる」ことが土台となります。イエス様が弟子たちに最後の別れの言葉として残されたのは、弟子たちが「一つになる」ということです。(ヨハネ17;11、21、23)それも「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」(:21)
「完全に一つになる」ということこそ究極の目的であるのです。キリストが父なる神と完全に一つであるように、一人一人がキリストと完全に一つになることによって、神様の御心と一つになるのであり、正に、神様の御国がキリストによって成ることを目指しているのです。言換えれば、その為にキリストは人となり、その為に十字架に犠牲となって「一つになる」ことを破壊する罪のために贖いとなられたのです。「一つになる」ことは「和解」であり、「調和の回復」であり、「平和」と「祝福と共生の回復」にあるのです。「一つになる」ことが最初の出発点であり、ゴールであると言えるのです。キリストのこの使命の実現の祈り、最後の祈りこそは、繰り返し、繰り返し、日々の生活の中で確認する指標になるのです。「キリストに近づけば、近づくほど人々は一つになる」ことが出来るのです。そこに「キリストの御心」に生き、「キリストの御心」を実現することの一致が生まれることになるのです。「一つになる」ことは「協力」であり、「共助」「キリストへの献身」であり、そこには共通の目的を目指す「喜び」が生まれるのです。その喜びこそ御国の先取りとなる働きであるのです。
 使徒パウロはキリストの招きに相応しく「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」(エフェソ4:2−3)クリスチャンに勧めるのです。「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。 主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」(:4−6)とその基礎となる真理を示しているのです。
 だからこそ、最も大切なことは「一つになる」ことであり、このことが始めであって「一つになる」ことが成長と発展におけるすべてとなるのです。
 第一に、「一つになる」こと、「成れるには」、イエス・キリストを見上げることに始まります。キリストを見上げる時にお互いの罪が明らかにされます。自己中心から、キリスト中心に向かう時に十字架の赦し、和解が「一致」を実現するのです。パウロは「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソ2:14−16)と言うのです。
 第二に、キリストはこの平和の福音の実現をクリスチャンに委ねられるのです。主イエスは「あなた方は行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。」と言われているのです。使徒パウロは「御言葉を宣べ伝えない。折が良くても悪くても励みなさい。」(テモテU4:2)と言っています。宣教の「実」(ヨハネ15:16)を結ぶことこそはクリスチャンの使命であるのです。
 第三に、召されたクリスチャンは、キリストの体、教会において一人一人の個性と能力と賜物が備えられ用いられ、さらに信仰と知識において一つのものとし、成熟した人となってキリストの満ち溢れる高さにまで成長を目指すことになります。(エフェソ4:13)「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(4:15,16)教会が、キリストを信じ、キリストに従い、キリストの言葉に生きる時、「祈りと伝道」に真実の目指す目標が明らかにされ、取り組む仕方を明確に自覚できるのです。キリストを見上げ、キリストに従い、生きるところに勝利が約束されているのです。
「神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(ヨハネT、5:3−5)


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