2013年 1月20日 礼拝メッセージ 

「イエスの召命と祝福の道」
ルカによる福音書5章1−11節

 人にとって日々の生活の活力は「喜び」と考える事ができます。人を生き生きと生かすには「喜び」が不可欠です。聖書は繰り返して「主において喜びなさい」(フィリピ3:1)「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(フィリピ4:4)「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことでも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなた方に望んでおられることです。」(テサロニケT5:16−1)と教えていて、「喜ぶ」ことを父なる神様は主イエス様にあって望んでおられるのです。
 現実の生活は喜びよりも悩んだり、悲しんだり、苦しむ事の方が多いと言えます。「いつも、(例外なく)喜び」「どんなこと(嫌なこと)でも感謝できる」ことをイエス様が求められても、不可能であるのです。聖書を通読しながら言葉をよく考えないで読むことがありますが、ちょっと立ち止まって「考える」と無理なことにぶつかるのです。「いつも喜び」「どんなことでも感謝する」こと、また山上の説教では「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48)と命じられているのです。不完全でいつも失敗をし、道徳的にも社会人としても決して「完全」であることは出来ないし、なろうとしても難しい弱さを人は持っているものです。神様と同じ完全になることなどは不可能であると言えるのです。しかし、繰り返し教えられているように聖書の言葉の命令は「キリストにある約束」であるのです。罪深い、不完全な人間を「完全なものにしてあげよう」という約束であるのです。赦されない罪、赦しえない過ち、救いえない破壊者を造り変えて下さるのがキリストの「福音」であるのです。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(Uコリント5:17口語)キリストを信じる時、新しく造られたものとなり、神様を知らなかった過去は過ぎ、新しくなり、キリストの約束の言葉に生きる者とせられたのです。キリストが、喜べない時でも「喜ぶ」ことが出来るようにして下さると言う約束であるのです。信仰による「喜び」であるのです。キリストにある新しい「喜び」に生きることです。
 ルカの福音書の5章には、シモン、即ち、後の教会の土台となるといわれるペテロの召命の記事が記されています。当初イエス様は福音を諸会堂を巡り歩いて語られていました。どこに行っても多くの人々がついてくるので、とうとうガリラヤの湖のほとりで人々に語り始められるのです。あまりにも人が多いので、すり鉢型になった岸に人々を座らせました。水際では漁師たちが漁を終えて舟から網をおろして洗っていました。イエス様はそのうちの一人であるシモンに、舟を漕いで岸から少し離れるよう頼まれ、舟から群衆に教え始められたのです。イエス様は話が終わるとシモンに「沖に漕ぎだして網をおろして漁をしてみなさい。」と言われるのでした。シモンは「先生、私たちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」(ルカ5:5)と言うのです。シモンたちはベテランの漁師です。長い経験から全く収穫のない漁などはしたことがないのです。この言葉の中には、「もう行っても無駄です」という気持ちが明らかに表れているのです。更に彼らは夕方から夜通し漁をするのが普通であって、朝から舟を出して漁をすることはないのです。昼の漁は経験的にも無理なのです。どうしてそんなことを素人で経験のない人が言うのか分からないという気持であったのです。疲れている。もう何回やっても無理であるという人間的な消極的な思いがあったのです。
 彼は「しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう。」と言うのです。なにが彼をそうさせたのでしょうか。おそらく、イエス様が熱心に多くの聴衆を前に話しておられたのに、あまり関心がなく網の手入れをしていたシモンに、気軽に舟を貸してくれと言って舟を出させて話を続けられたことで、シモンはイエス様のお話を聴き始めたといえます。シモンはイエス様の福音を聴き、どのような人でも罪を悔い改め、神様のもとに行くことを願うならば、神様は必ず手を広げて迎え入れて下さる愛なる神であり、生ける神様であると教えられました。当時は漁師や農民、庶民はモーセの律法を十分に知らず、ましてや律法を解釈した日常のこまごました決まり(ミシュナ)を知っていないことを理由に、無知とさげすまれ、律法を知らない人間は律法を守れない罪人として軽蔑されていたのです。常に庶民は惨めな差別をされ、屈辱感と卑下する思いとを持っていたのです。イエス様は、神様の愛による罪の赦しを教え示されたので、多くの庶民が慕い集まるようになったのです。
シモンは、この方こそ神に遣わされた方であると実感するのでした。彼は言います「お言葉ですから、網をおろしてみましょう。」と。あなたの言葉ですから、イエス様の言葉ですから網をおろそうと言うのです。罪深い人間を越え、優しさと慈しみに満ちた、人を越えた偉大な方の言葉であるのだから、私のような罪深い、迷いの多い者にも何かをして下さるのであろうと、明るくなってからの漁が無意味であるのに彼は決断したのです。シモンと一緒にいた兄弟達と再び沖へ漕ぎだしたのです。網をおろしました。するとおびただしい魚が獲れて、網が破れそうになるのです。岸にいる他の舟を呼んで魚をすくいあげると、舟一杯になって沈みそうになるのでした。驚いたシモンはイエス様に「主よ、わたしから離れて下さい。私は罪深い者なのです。」と言うのです。今の今までシモンは、自分の経験と知識で判断し、批判的に、疑いながらイエス様の言われることに従っていたのです。しかし、この奇跡、起こり得ないと思っていたことが起こったのを見て、心からイエス様がして下さったことに感激し、真実に自分が罪深い者であることを自覚したのです。イエス様はシモンに「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と言われるのでした。
 第一に、シモンは、群衆がイエス様を求め、その話を聞こうと集まるけれども、我関せず、網をあらい仕事を続けていた。夜通し働いて獲物がない、疲れた体、疲れた気持ちを抱えながらなんとか早く家に帰って休みたいと思っていたのです。しかし、イエス様はこのシモンの心にこそ、神様にある恵みと喜びを知らせたいと声をかけられるのです。舟に座りながらイエス様の言葉を聴き、神様の恵みと愛が、見下げられ、軽蔑され、差別される日常の嫌な思いからシモンを解放したのです。イエス様によって真実に神様は罪深い者とされている人を解放し、神様の御国に受け入れられる「喜び」を教えられたのです。
第二に、神様を信じ、神様を知ること、神様のお言葉に生きることは、人知を越え道を切り開く事実を経験させるのです。自分の経験や知識を越えた神様によって道が開かれることを経験するのです。夜通し漁をしながら魚が獲れないような理不尽、決して獲れないと思っていた朝の漁で、今までに経験したことのない大漁になったことによって、神様は正に、生ける方であることを学んだのです。信仰は「理解して分かるのでなく、信じて理解出来る」ことである。この信仰の「喜び」を知ったのです。
第三に、神様を信じる信仰の喜びの証しが共に「人をとる漁師」になることでした。それは最大の「喜び」であり、幸せであるのです。人々にイエス様の示された福音、十字架の赦しと永遠の命を伝えることこそが「喜び」に満ちた道であるのです。それが自らの生活の「喜び」となるのです。
 人生を如何なるときにも「喜び」に変え、「喜び」に生きる希望をイエス様は与えて下さるのです。「主にあっていつも喜べ」(フィリピ3:1)イエスの喜びに生き、イエスの喜びを伝えなさい!!

 

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