2013年 1月27日 礼拝メッセージ 

新島八重の生涯

会津藩の砲術師範であった山本権八・さく夫妻の子として誕生。会津戦争時には断髪・男装し家芸であった砲術を以て奉仕し、若松城籠城戦で自らもスペンサー銃を持って奮戦した。会津戦争が始まる前、但馬出石藩出身で藩校日新館の教授をつとめていた川ア尚之助と結婚したが会津若松城籠城戦を前に離婚、一緒に立て籠もったが戦の最中に尚之助は行方不明になった。
明治4年(1871年)、京都府顧問となっていた実兄・山本覚馬を頼って上洛する。覚馬は戊辰戦争で戦死したと思われていたが奇跡的に助かり、京都の薩摩藩邸に捕えられていた。統幕と尊王との対立戦争であったが、維新の経緯の中で蛤御門の変では友軍であったこともあって好意的に受け入れられたと言われている。覚馬は佐久間象山にも師事しており、時代の変化への見識を持って西郷隆盛に世情の政策の「管見」をまとめたのが認められ、京都府知事の槇村正直の顧問として仕えることになる。そして明治8年(1875年)に覚馬は一人の米国人と会っている。新島襄が帰国して共に働くことになっていたアメリカンボードの宣教師M・L・ゴードンである。当時は外国人が京都は天皇の在所であることから入れなかった事情があったが、明治7年から毎年京都博覧会が開催されるようになり、その期間だけは外国人が入京を許された。ゴードンが京都に行った時に覚馬と出会い、一冊の本「天道溯源」という漢語の本を贈る。これキリスト教の解説の本であった。これを訳した中国宣教師A・マーチンは、また、「万国公法」を漢訳していた。この本は勝海舟や坂本竜馬が国際法を学ぶきっかけとなった。覚馬はこの「天道溯源」を通してキリストの救いに導かれる。覚馬はリュウマチを患い身体が不自由になり、さらに目を患い視力をなくすのである。八重はこの兄を助けようと京都に出ることになる。翌年、兄の推薦により京都女紅場(後の府立第一高女)の権舎長・教道試補となる。この女紅場に茶道教授として勤務していたのが裏千家13代千宗室(円能斎)の母で、これがきっかけで茶道に親しむようになる。このようにしながら八重は一方でゴートン宣教師のところで英語と聖書を学ぶように兄に勧められ、三条木屋町のゴードンの屋敷に行くようになり、キリスト教信仰に導かれることになる。そこで兄の元に出入りしていた新島襄と知り合い、明治8年(1875年)10月に婚約。当時、新島のキリスト教主義の学校建設を阻止しようと町の僧侶・神官たちが連日のように抗議集会を開き、京都府知事・文部省に嘆願書を提出するなどして圧力をかけていた為、京都府は婚約直後、突如八重を女紅場から解雇した[3]。
明治9年(1876年)1月3日に再婚。京都初の日本人同士のキリスト教式の結婚式であった[1]。女紅場に勤務していたときの経験を生かし、同志社の運営に助言を与えた。欧米流のレディファーストが身に付いていた襄と、男勝りの性格だった八重は似合いの夫婦であったという。夫をかしずかせ、車にも夫より先に乗る姿を見て世間から悪妻と評された[1]。
同志社英学校においても、戊辰戦争の際会津藩を攻めた薩摩長州出身の学生を冷遇したり、問題を起こした兄嫁を義兄や襄が許しても家から追い出したりと、西洋の感覚を身に着けながらも、武士の誇りと道徳にこだわったため、周囲との軋轢を生んだ[1]。このため、同志社英学校の学生達の演説会に夫婦で出席した際は、当時学生であった徳富蘇峰に演壇より「頭と足は西洋、胴体は日本という鵺のような女性がいる」と強く非難された[1]。これに対し八重は全く動じなかったと伝わっている[1]。しかし夫婦仲はとても良くこの時期夫の襄はアメリカの友人への手紙で「彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です」と書いている[1]。
明治23年(1890年)、襄は病気のため急逝。襄の臨終の床で蘇峰に過去の非礼を詫びられ、和解した。前々年の明治21年(1888年)5月、襄は彼のよき理解者であり、協力者であった奈良県吉野の山林事業家で自由民権運動の財政的後ろ盾でもあった土倉庄三郎に「小生ノ病症は早ヤ心臓病ニ相違無之、早晩小生ハ此之病之為ニ斃るへきハ覚悟せねばならさる由」(『新島襄 人と思想』(晃洋書房)より原文のまま)と、学校のこと八重のことを書簡で縷々述べ、土倉に協力を求めている。2人の間に子供はおらず、更にこの時の新島家には襄以外に男子がいなかったため養子を迎えたがこの養子とは疎遠であったという。さらにその後の同志社を支えた襄の門人たちとも性格的にそりが合わず、同志社とも次第に疎遠になっていった。この孤独な状況を支えたのが女紅場時代に知りあった円能斎であり、その後、円能斎直門の茶道家として茶道教授の資格を取得。茶名「新島宗竹」を授かり、以後は京都に女性向けの茶道教室を開いて自活し裏千家流を広めることに貢献した。
日清戦争、日露戦争では篤志看護婦となった。功績により昭和3年(1928年)、昭和天皇の即位大礼の際に銀杯を下賜される。その4年後、寺町丸太町上ルの自邸(現・新島旧邸)にて死去。86歳没。葬儀は「同志社社葬」として4,000人もの参列者があった。墓所は、京都市左京区鹿ケ谷若王子山町の京都市営若王子墓地内同志社墓地

 

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