2013年 2月3日 礼拝メッセージ 

「喜びの力と祈る教会」
ローマの信徒への手紙12章9−21節

 今日は私達の教会にとって一年の宣教の指針を定める大切な出発の日です。反省なくして目標を目指し出発することは出来ません。キリストの教会に託されている使命は、聖書にしっかり基礎付けられています。「教会はキリストの体であり、すべてのことにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」(エフェソ1:23)と聖書に記されています。言換えれば、キリストを信じる人々によってキリストが今も生きていてその御心を証しされていることを示しているのです。キリストが信じる人々と共にいて、キリストの御心を継承し、イエス・キリストによって与えられた使命を実現し、推進することと考えられます。教会の基礎的な意義や使命は、イエス・キリストにあるのです。「教会はキリストの体である」と共に「あなた方はキリストの体であり、又、一人一人はその部分です。」(Uコリント12:27)と言っています。「体」にたとえているように、体には生きる(目標)ために様々な部分があり、それぞれが機能を異にしていながらそれは一つの目標のためにあるということを教えています。体には何一つ無駄な部分はないのです。聖書は適切な指摘をしています。
「だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(Uコリント12:20−26)
このように、教会は生けるキリストがその使命を信じる人々と共に現実に「証し」されている場にほかならないのです。だからこそ、クリスト者は、正に、キリストの使命に生き、生かされ、存在する者とされているのです。そこに教会の原点があるのです。
使徒パウロはローマのクリスチャンへ手紙を書いています。未だ会っていないローマの人々へ、行くことを予測して書いた手紙ですが、「ぜひ、福音を告げ知らせたい。」(ローマ1:15)と言いながら、ローマ書1章から11章までイエス様の福音を克明に解き明かし、あらゆる罪からの解放と救いを理路整然と書き記すのです。そして、後半の12章から終りまでに具体的な信仰の生活の原則と、在り方、生き方をその基本から詳しく教えているのです。
 ローマ書の12章9節から21節までには「教会生活の規範」、在り方を総括しています。それはキリストを信じる人々の交わり(教会)の在り方です。先ず、第一に、「愛には偽りがあってはなりません」(12:9)と言います。愛し合うことに偽善を挟んではならないと言うのです。その二には、「怠らず、霊に燃えて、主に仕えなさい。」(12:11)聖霊に満たされて主に仕えることです。その三には、「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」(12:12)であり、「祈る」ことが鍵となっています。
 教会はイエス様を信じ、イエス様に生きる人々の「交わり」です。「わたしたちの交わりは御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(Tヨハネ1:5)イエス・キリストの福音を信じる信仰によって発見し、経験した「永遠の命」の喜びの交わりであるのです。永遠の命、神の国に至る唯一開かれている道であるのです。
「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒4:12)
このことから、先ず第一に、キリストに生きることは、「キリストの交わり」に生きることであり、キリストの交わりとは、キリストに愛されている交わりにほかならないのです。キリストの愛は、「神の愛」であって、十字架の上ですべての人の罪のために贖いとなられたのです。「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(Tヨハネ2:2)この真実を受け入れその「十字架の言葉」に生きるのです。この愛の交わりこそが、神様の臨在を生きることになり、証しすることになるのです。
「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(Tヨハネ4,12)
偽りの愛とは、自己中心の愛であり、キリスト不在の愛です。真実の教会はキリストの愛に生きる、生かされる交わりであるのです。「悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」(ローマ書12:9,10)そして更に具体的に「泣く者と泣き、喜ぶものと共に喜ぶ」真実のイエス様の愛が生かされることを教えているのです。更に,勧めは続きます。「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」(12:16−18)これがイエス様の示される愛の具体的な教えであるのです。そして、これは“わたしたちの交わり”だけでなく「すべての人との平和」を求める御心であるのです。
 このことから、正に、「主に仕える」(:11)ことはキリストの愛に生き、すべての人と平和に生きることを求めるのです。言換えれば、すべての人が「平和の神」を信じ、平和を実現出来ることを祈り、願うことです。「主に仕える」ことはキリストの愛に生き、キリストの愛を伝えることです。それは、取りも直さず、「キリストの平和」を伝え実現することです。主の祈りを生きることであるのです。
「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」(マタイ6:10,11)
だからこそ、その実現に「霊に燃え」させていただく、聖霊に燃えることは、満たされることでもあり、聖霊が命として主のみ教えの証しのために奉仕、宣教の力として、知恵となり、働かせて下さるのです。キリストの愛が伝えられる前に、キリストの愛がわたしたちの“交わり”に生きていなければなりません。福音が伝えられる前に、福音の喜びがわたしたちの“交わり”に生かされていることです。
 キリストの霊に燃え、キリスの福音と愛が生き生きと“交わり”中で生きていることこそ大切なことであるのです。その“交わり”の命こそは「祈り」であるのです。苦難を越え、希望をもって喜ぶことの根源は「祈り」の生活にあるのです。「祈り」はキリストによる父なる神様への交わりに他なりません。言換えれば、「祈り」のあるところに活ける神の愛、神の命、神の力が現実するのです。
聖書は勧めています。「たゆまず祈りなさい。」(ローマ12:12)わたしたちの教会こそ「祈る教会」であるのです。「祈り続ける教会」であるのです。「真実に祈る」教会はキリストの愛に満たされ、キリストの愛に生かされる、キリストの愛の喜びに生きる教会であるのです。この喜びこそは「キリストの福音」を人々に宣べ伝える力となり、愛と平和の希望となるのです。
「祈りと伝道」これこそがわたしたちの教会の使命であるのです。


 

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