2013年 2月10日 礼拝メッセージ 

「聖霊に満たされた教会」
使徒言行録2章36−47節

 最近使われている言葉を注意してみると、外来語が多くなってきてどこの言葉か分からないが、兎に角、英語の素養だけでは足りないように感じることがあります。特にキリスト教会は長い歴史をかけて西洋から伝えられて来ているので、新しい方々には馴染みのない言葉で戸惑うこともあるのではないでしょうか。聖書の言葉(ヘブル語、ギリシャア語)をそのまま用いていることもあります。ハレルヤ、アーメンなどはクリスチャンでない人にも分かるようになってきています。ゴスペルなどは音楽の一つのジャンルになっているようです。キリスト教用語も英語で表すことが多くあります。わたしたちの教会はペンテコステ派(教派の流れ)にあります。それは教会が生みだされた記念する日を言っているのです。ユダヤの祭日に五旬節というのがあって、五旬は50日でペンテコステはギリシャ語で50を指すのです。イエス様は十字架に架けられ、復活すると言っておられた通りに復活され、イエス様を慕っていた人々の前にたびたび現れ、真理の霊、聖霊を送られることを約束されていました。その聖霊を受ける時、イエス様の真理、即ち、福音を分かるようにして下さると言うのです。「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14:26)「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(ヨハネ16:13)120人のイエスさを慕っていた人々がエルサレムのマルコの家の二階座敷で祈っていると、五旬節の日の朝、突然、大きな音がして風が吹き込み、祈っている人たちの頭の上に舌のような炎の異象が現れてとどまるのでした、人々は一斉に知らない、学習したことのない言葉で祈るのでした。その日、エルサレムはペンテコステの祭日のために当時のローマの世界中から離散していたユダヤ人たちが来ていました。その人たちが自分の住んでいる遠い町の言葉でそれぞれが祈っているので不思議に思い集まって来たのです。そこで弟子の年長のペテロがおもむろにそのわけを語り始めるのでした。イエス様が、十字架に架かり、三日目に甦られたのは人々が罪の赦しを得て永遠の命に入れられるためである。聖霊を御父から受けて注いで下さったのだと説教したのです。(使徒2:14−36)そこで初めてイエス様の教えが分かったのです。弟子達も、一緒にいる人たちも、見物の人々もイエス様の十字架と復活を理解できたのでした。
これが教会の原点であるのです。キリスト降誕から2013年です。その間、長い歴史の経緯の中でイエス様の教えから離れ、聖書を見過ごしにすることが起こりました。或る時は、古び、ある時は腐敗し、堕落さえしていたこともあるのです。そのたびに真実のキリストの教会とは何かが問われてきました。真実の教会とは「聖書に帰る」ことであると自覚し、聖書に帰るたびに教会が刷新されてきているのです。弟子たちは聖霊を受けてイエス様の福音の意味をしっかり理解しました。キリストが十字架の上で示された愛、救いの喜びと、力と、勇気に溢れるキリストにある真実の交わりの誕生です。その日こそペンテコステの日であったのです。
ペンテコステ派はイエス様の命、十字架の愛を現実に生き、伝えることを意味するのです。聖霊に満たされている教会とはペンテコステの日に立ち帰って、神の愛に生き、神の愛を実践し、その愛の真実の福音を伝える使命の教会であるのです。初代の教会はとはどのような教会であったのでしょうか。
聖霊に満たされた教会であった。聖霊は神そのお方です(三位一体の神)。イエス・キリストの真理の霊(ヨハネ16:13)出会って、キリストを信じる、それは「聖霊によらなければ」イエスを「主」、神と呼ぶことは出来ないと聖書は教えています。「霊(聖霊)によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。」(Tコリント12:3)イエス様を信じる時、聖霊なる神は共にいて下さるのです。聖霊の臨在は、イエス・キリストの臨在であるのです。聖霊の働きは見えないキリストが今共におられる経験なのです。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」(Tペテロ1:8)
第一に、聖霊は確かな救いの喜びです。その喜びはイエス・キリストの福音、十字架の赦しと復活の永遠の命です。ペンテコステの日に初めて、確実に、イエス様の十字架と復活の意味、使信、神様から伝えられたメッセージが分かったのです。腑に落ちる、悟ったのです。正確には、悟れたと言うべきであるのです。聖霊は心の目を開き、見えないイエス様を見える、解るようにして下さったのです。この聖霊経験が確かな証しになるのです。
 第二に、キリストに出会う、救いの喜びはクリスチャンの基本的な命です。それは神に愛されている自覚に生きる喜びであるのです。キリストの愛に生きることこそ神の御心に生きることになります。「神を見た人はありません。愛のあるところに神が共にいます」(Tヨハネ4:12)クリスチャンにとって無上の喜びは神様と共にあることです。使徒言行録のクリスチャンは毎日教会に集まっているのです。主を信じる人々は共に賛美をし、パンを分ち、共に祈るのです。
 第三に、真実の十字架の愛のあるところは自己犠牲をもって愛を表わします。自己犠牲の勇気がそこに湧き出でるのです。力はあっても勇気のない時、力は役に立たちません。愛は恐れを取り除くと言います。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」(Tヨハネ4:18)聖霊に満たされることは、愛に満たされることであり、愛に満たされることは勇気に生きることです。勇気は心の、精神の力である。そこから忍耐が生まれ、期待し待つ力、命が生まれるのです。それは物欲からの解放であると言えます。
 第四に、「主を喜ぶことこそ力です」(ネヘミヤ8:10)聖霊に満たされることは主の喜びに満たされることにほかなりません。クリスチャンの喜びは「主を喜ぶ」ことにあります。人は、自分の喜びを生活の第一にする存在です。初代の教会は「主に喜ばれる」教会であったのです。「主に喜ばれる」クリスチャンの集まりです。初代の教会は、毎日教会に集い、交わり、パンを裂き、食事を共にして交わっていたのです。そして奉仕をして互いに仕え合っていたのです。
 そして、日々人々の尊敬を集め、人々が仲間に加わりました。リバイバルがそこに起こるのです。ペンテコステの日に3千人の人が仲間に加わった。数日にして5千人の人々が受洗するのです。
 その後、教会は苦しい弾圧を受けますが、救いを受けた者たちは迫害から逃れ、地方に散らされます。しかし、逃れたところに福音が宣べ伝えられるのです。
「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。」(使徒9:31)
聖霊に満たされようではありませんか。聖霊の愛に、聖霊の命に、聖霊の喜びに、聖霊の力に満たされようではありませんか。
「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」         (エフェソ1:23)
「イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。』」       (マルコ16:15,16)

 

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