2013年 3月3日 礼拝メッセージ 

「不思議な祈りの力」
マルコによる福音書11章20-26節

 クリスチャン信仰の醍醐味は、祈りの生活です。神様を信じていても生きた信仰と死んだ信仰とがあります。死んだ信仰は形式的で、生活の中に聖書に約束されている信仰が実っていないのです。言換えればイエス様の言葉を命として受け入れていないために約束の実が実らないのです。イエス様が約束される実は、イエス様という木に繋がり、その命によって実を結ぶのです。
その「繋がる」命こそ「祈り」です。イエス様を信じることは、イエス・キリストの十字架の贖いを信じ、生ける父なる神様との交わりを回復することです。ヨハネ第一の手紙一章には、「あなた方に伝える」福音は、「父なる神様と子なるイエス・キリストとの交わりを持つためです」と書かれています。(1:3,4)そして「その交わりは、神様を信じるわたし達の喜びが満ち溢れるためです」というのです。「この交わり」と「喜び」こそは「祈り」であるのです。「喜び」は命の実であり、祈りの実であると言えます。
「祈り」はクリスチャン信仰の生きた証しであって、命の証であるのです。「祈り」があるところに信仰の実としての喜びが実るのです。「祈り」は“呼吸”になぞらえられます。「祈り」のないのは「呼吸」のないことであり、生きている信仰とはいえません。祈りのあるところに喜びがあります。イエス様によって神様の愛を知るのです。愛されている自分を発見する時、無限の神様の恵みを知るのです。そこに神様を喜ぶ喜びが湧き上がり、信仰の命の力となるのです。その命は神様の愛です。生きる可能性、生きる勇気、生きる希望が支えとなるのです。ですから聖書は「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。」(Tヨハネ4:18)というのです。そして「これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。…これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」(ロマ8:31,37)現実の生活において確信に満ちた勝利的な日々を送ることになるのです。「祈り」は信仰の命の証です。
 イエス様はマルコ11章の中で「少しも疑わずに信じなさい。」(11:23)と言われています。その前に弟子のペトロがイエス様が呪われたイチジクの木が枯れているのを見て、「あなたが呪われたイチジクの木が枯れています」と言うのでした。その前日、イエス様はベタニアを出られる時空腹を覚えられ、道端にイチジクの木があるのを見て、葉が茂っているのを見て、実がなっていると思い近づかれた。しかし、実はなかった。イチジクの季節ではなかったと記しているのですが、本来葉もそんなに茂らない季節であるが、葉が茂っているので主は近づいて実を求められたのです。そしてイエス様はこの木に実を結ぶなという言葉を投げかけられたのです。エルサレムでの宮清めの真意は、「祈りの家」であるべき神殿を、形式的、世俗的な商売の場所にしてしまっている人々へ警告をされたのでした。翌日早朝、再びエルサレムへ向かわれる途中、あの“イチジクの木”のところに差し掛かった時、その木は根から枯れているので、ペトロがそれをイエス様に指し示したのです。それはエルサレムの神殿に集う人々が信仰を失い、信仰を商売に変え、命のない習慣化した信仰となっていることへの痛烈な批判であったのでした。
 主イエスはペトロに言われます。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。」(11:22,23) “高い山”に向かって“海に飛び込め”と言うことは極端であるのですが、不可能なことを可能にする、全能の力を持って応答される神様であることを表しているのです。聖書は「人にはできないが神には何でもできる」「イエスは彼らを見つめて言われた『人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。』」(10:27)「神にできないことは何一つない。」(ルカ1:27)「イエスは、『人間にはできないことも、神にはできる』と言われた。」(ルカ18:27)と繰り返し記しています。
 第一に、「疑い」を持って「祈る」ことは空しいことです。信仰、即ち、信頼がないことが「疑い」であるのです。「祈り」はイエス様を信頼する時に「命」と「力」になるのです。「疑い」があるかないかは、「信じるか」「信じないか」です。信じないで祈る祈りは、祈りではないのです。「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。」(ヤコブ1:6)
祈りの人として知られるジョージ・ミュラーはプロイセンで生まれ、イギリスにわたり産業革命の影響下にあって赤貧の孤児たちを救う働きをブリュセルで始めたのです。孤児院が立てられた後、難しいことがずっとありました。残った最後の小麦粉でパンを作って夕方の食卓を整えながら、次の日の朝のために祈らなければならない日々が繰り返されました。ミュラーは絶え間ない祈りによって、孤児院に必要なすべてのものを切に求めたのです。彼が祈った物品と食べ物は、いつも間違いなく供給されたといいます。時には神を信じていない人々までも彼の孤児院を助けたのでした。ある豪雨で荒れた日、孤児院には食べる物は何も残っていませんでした。400人の孤児たちと一緒に空の食卓に囲んですわって、ミュラーは手を取り合って食事の祈りを捧げました。彼の祈りが終わった時、一台の馬車が到着し、孤児院の門をたたいたのでした。その馬車には、焼き立てのパンと新鮮な牛乳が一杯ありました。近隣の工場の従業員たちの野宴会のために注文されたものですが、豪雨でキャンセルされ、孤児たちに送られたのでした。ミュラーの信仰は、いつも“神、共におられる”という確信でした。揺るぎない確信がどのような時にも平安を与え、主を待ち望む祈りの人であったのです。生ける信仰は祈りの生活を生むのです。
 第二に、祈りは「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」(マルコ11:24)ことであるのです。これはイエス様のみ言葉です。信仰による祈りは信仰の実践であるのです。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブル11:1)祈り願うことは、未来の実現であるのです、しかし、信仰により祈りは願っていることを、今、現在、事実として確信することです。この確信は「諦めない祈り」です。イエス様は祈る時「諦めてはならない」と教えられています。「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教え」(ルカ18:1)られているのです。口語訳には「イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。」とあります。
 第三に、祈りは信仰による神様との出会いの体験の時です。神様との交流による霊的命の成長の時でもあります。信仰生活の霊的な根源でもあります。日々の生活で豊かに宿した神様の御言葉、聖書の言葉が祈りによって全人格的に生命化されるのです。イエス・キリストに繋がり、キリストが内住して下さるのです。祈るクリスチャンは成長します。聖霊の実を結ぶのです。(ガラテヤ5:20)祈る人は主に喜ばれ、主を喜ぶ、主の喜びに生きる人であるのです。
 最後に、主イエスは御心にかなう祈りの基本的な態度、心の在り方を示されています。「祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」(マルコ11:25)心の中に憎しみを持って祈る、祈りは、主に受け入れられません。心の霊性が整えられることが大切なのです。「主の祈り」においても「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」(マタイ6:12)と教えておられます。また、続いて「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」(14,15)この言葉が示していることは、祈る時には主の十字架を見上げ、自らの心を開いて罪と咎を反省し、罪赦され新たにされて祈ることが大切であるのです。
一日を祈りで始める時、主の十字架を崇め、悔い改め、新しい祈りの一日を始めようではありませんか。

 

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