2013年 3月10日 礼拝メッセージ 

東日本震災復興記念
「活ける神キリスト」
ヨハネによる福音書12章44-50節

 明日は3月11日です。2011年3月11日14時46分、太平洋三陸沖を震源として大地震が発生しました。マグニチュード9という巨大な地震は三陸地方を津波で襲いました。ある所では内陸へ6キロ浸水し、死者行方不明者1万9千人に上り、福島第一原子発電所の崩壊で10万人の人々が放射能汚染のために住居を追われているのです。一瞬にして家族を失い、幾世代にもわたって築き上げてきた家や田畑を、生活の支えであった舟や職場を失ったのです。2年がたちました。復興には多くの複雑な課題が山積しています。仮設でわびしく暮らす人々の生活はまだまだ回復していないのです。この悲劇はすべての人に人の心を取り戻す機会となったと言えます。誰にでも災害が襲ってくる可能性があるのです。災害に苦しみ悲しみ、苦悩する人々への同情と助けの手を差し伸べることは人の人たる根本であるのです。悲劇を通して「人間」が「真実の人間性」を取り戻すこと学ぶことが出来ます。私達は「東日本地震災害復興」のためにコンサートを開きました。募金活動やボランティア活動の参加に協力してきました。私達アッセンブリーの教会は国内だけでなく国際的に多くの方々が応援し、1億円以上の義援金が寄せられてきました。2年を迎え、新たに早期復興を祈る時としたいと思います。
 今回の災害は自然災害であると共に、原子力発電所の崩壊が人為的災害であることに注目と反省があります。ほとんどの国民が知らない間に小さな島国に56ヵ所の原子力発電所が設置されていたことに注目が集められているのです。電力と現代工業、日常生活とは密接につながっています。原子炉の到壊と放射線災害の恐怖がいかに深刻であるのかを初めて経験したのです。設置する時には自治体に様々な経済的な保障で説得し、地域も潤沢な経済的背景で豊かな行政を行ってきています。しかし、いざ事が起こった時には被災者にどのように、どこまで不幸と生活再建の保障が出来るのか。今それが課題になっているのです。
 人々が理性に目覚め、立証主義に走って近代が始まりました。創造主なる神に造られた自然を忘れ、自然を克服し、支配し、浪費する文化が生まれてきたのです。そして、豊かな、便利な生活を求めて、自然を破壊して利益を生み出し、人と人が競い、国と国が争い、未分化、後進の国を支配、略奪、搾取して闘争の果てが“原子力”の破壊に至っているのです。
 利益と革新に人間性を失った現代文化は、混乱と破壊、不安と絶望となっているのです。キエルケゴールの著作「絶望とは死に至る病」が示すように“現代文化”は死を予感し、死の不安に支配された社会であるとさえいえるのです。“死”は不安、未来が見えない、絶望であるのです。それは「闇」です。聖書は「闇の中を歩く者は、自分がどこに行くか分らない。」(ヨハネ12:35)と言っています。今最も、大切なことは「人間性を取り戻す」ことにあるのです。闇の根源は「人間性」を喪失していることに気付かないことにあります。カルヴィンは「神様を知ることは自分を知ることである」と言っています。闇の悲劇は“人間喪失”にあるのです。アンセルムスは「理解するために信じる」と言います。神様を信じてはじめて知解出来るのです。
 「初めに、神は天地を創造された」(創1:1)とありますように、すべての存在と命の根源こそ神様です。そして、人に生きる可能性、自然の仕組みを備えられたのです。その根源は「神様の愛」なのです。(Ⅰヨハネ4:16)本来人間は、生きているのでなく、生かされていると言えます。生かされているとは愛されていることであるのです。水も空気も備えられたものであり、神様の愛の証です。神様を信じることは神様の愛を自覚し、知ることです。真実の神様の愛を見失い、喪失した時、人の世界は不信と自己主張の闘争と混乱に巻き込まれることになったのです。神を見失うことは、神様の愛を失うことになります。愛は、奇跡を生みます。神様は御子イエス・キリストを通して、見失われた「真実の神様の愛」を示されたのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子(キリスト)としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1:14)ここにある「言」とは正に「この世界が“神の言葉”によって創造された。」(ヘブル11:2)言葉こそ神の本質を言い表しているのです。そして聖書は証言します。「“言”の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(1:4,5)人になられた神、それがイエス・キリストです。イエス・キリストは、“人間性”を回復する為、神に与えられている命、霊性、即ち、「真実の神の愛」に生きるようにその道を開かれたのです。「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」(ヨハネ12:46)闇は絶望、不安、混乱です。光は希望、平安、調和、安心であるのです。そのキリストに表された命とは、神様の「真実の愛」です。人を愛し、自然を慈しみ、愛しあって生きるところに真実の「絆」が生まれます。「絆」とは平和であり、助け合う愛に生きる「真実の人間性」であるのです。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させる《きずな》です。」コロサイ3:12-14)この「絆」の回復は、イエス・キリストが十字架で成し遂げられた、神を見失い、人間性を失った人の根源からの罪の贖いによるのです。犠牲となってくださった「愛」によるものです。イエス様の十字架の贖いによる究極の「赦す道」、十字架の救いこそが「命」と希望の回復の道です。
 イエス・キリストを信じることは、キリストを遣わされた方、父なる神様を信じることです。「わたし(キリスト)を見る者は、わたし(キリスト)を遣わされた方(父なる神)を見るのである。わたし(キリスト)を信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたし(キリスト)は光として世に来た。」(ヨハネ12:45,46) 神様による回復は永遠であるのです。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタイ24:35)現実の世界は移ろい、消滅するのです。人の生涯も地上では終りがあります。言換えれば消滅と変転の継続です。現実の宇宙物理学でも終末は確かなものとされています。真実の命は、不変の永遠の命です。イエス様は言われます。「父の“命令”は永遠の“命”です。」(ヨハネ12:50)キリストを信じることは、不安と消滅からの救いです。どのような変化の中にも変わることのない平安、永遠の命があるのです。神様の“命令”とは神様の“掟”です。ヨハネによる福音書13章34節には「あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたし(キリスト)があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」と言われています。新しい「掟」は、旧約の掟でなく、正に、神様の「命令」であるのです。この言葉は聖書の原語でエントレー(έντολή)で12章の「命令」と13章の「掟」とは同じ言葉であるのです。この言葉は「命令、指図、指令、戒め、定め」などの意味で訳すことが出来ます。神様の「命令は永遠の命である」、言換えれば、「永遠の命に生きる」ということであり、「永遠の命を生活する」ことになるのです。それが人の守るべき「戒め」であり、新しい「掟」であるというのです。永遠の命は死後の問題ではなく、現在を永遠の今に生きることをいいます。永遠、変わらない神様の御心、御国に生きることになるのです。その掟、命令こそ「互いに神様の愛に生き、互いに愛し合うこと」(13:34)にほかならないのです。
 理性や理屈を越えた災害という理不尽の中で、如何なる試練にあっても変わらない不変のキリストによって現わされた神様の愛が、希望となり、暗黒の逆境を照らす光となって生きる命を回復させるのです。
「愛を追い求めなさい」(Ⅰコリント14:1)「愛がなければ、無に等しい。…愛がなければ、わたしに何の益もない。」(13:2,3)「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大なるものは、愛である。」(13:13)

 

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