2013年 3月17日 礼拝メッセージ 

「キリストの確かな約束」
ヨハネによる福音書14章23-31節

 私達の教会の町内には “高齢者いきいき事業”という活動があって、高齢者が閉じこもりきりにならないようにお互いに誘って集まり、行動して体を動かし交わることを勧めています。先日も京都へ観梅に行きました。高齢者が集まると年金生活のこと、人生の終わりのことなどの話が多くなります。生きる不安と、死の不安があります。生きるにも、死ぬにも不安があることは不幸なことです。生きている意味がないのです。“いきいき”ということは“人として生きている喜び”を実感できることなのです。高齢者の中には家に閉じこもり、一日中テレビを見ながら酒を飲み、一言も語ることがなく、人を避けてしまう方もいるのです。医学が進歩し、医療が行き届き、昨年の日本人の平均寿命は男性79.4歳、女性85.9歳で全国で100歳以上の人が5万人以上になっていると言われます。しかし、実際の健康年齢の平均は女性が73,62歳,男性が70,42歳と言われ、この年を過ぎると何らかの障害があるという統計があります。人は生きる上で神様を信じて生きるのと、信じないで生きるのとでは全く違う「生涯」となるのです。イエス様は「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」(ヨハネ14:27口語)と言われています。どのように平均年齢が伸びても、障害があって手厚い介護を受けても、年齢に関係なく人が「生きる」事に真実の喜びを持たないことは不幸なことであり、生きる事の空しさがなくなることはないと言えます。
生きるということは、死を予期していることになるのです。死の恐怖がつきまとうことは、消滅を予感するのです。自分の存在の消滅が恐怖となり、避け得ない消滅が絶望となるのです。存在の消滅は、時間の断絶なのです。理解しがたい不安がつきまとうことになります。聖書は「罪の支払う報酬は死です。神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ロマ6:23節)と記しています。ここで言う「死」とは「罪」の結果としての報いであると言うのです。「死」とは結果であって、何の結果であるのかが課題です。
その課題は、創造主が命と存在の根源であることを見失うことにあります。「神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。」(ロマ1:19-20)世界が造られた時から、明らかに“神の見えない性質”が被造物に表されており、神様の永遠の力と神性、即ち、神の存在を確認できるようにされているということは誰にも反論したり、弁解したりする余地がないことは明らかであると指摘しています。言換えれば、少し考えれば分かりきったことであるのですが、山や、樹、滝や、石でつくる偶像を礼拝する愚かさを言っているのです。

旧約聖書の預言者イザヤは、「偶像を形づくる者は皆、無力で、彼らが慕うものも役に立たない。彼ら自身が証人だ。見ることも、知ることもなく、恥を受ける。無力な神を造り、役に立たない偶像を鋳る者はすべて、その仲間と共に恥を受ける。職人も皆、人間にすぎず、皆集まって立ち、恐れ、恥を受ける。鉄工は金槌と炭火を使って仕事をする。槌でたたいて形を造り、強い腕を振るって働くが、飢えれば力も減り、水を飲まなければ疲れる。木工は寸法を計り、石筆で図を描き、のみで削り、コンパスで図を描き、人の形に似せ、人間の美しさに似せて作り、神殿に置く。彼は林の中で力を尽くし、樅を切り、柏や樫の木を選び、また、樅の木を植え、雨が育てるのを待つ。木は薪になるもの。人はその一部を取って体を温め、一部を燃やしてパンを焼き、その木で神を造ってそれにひれ伏し、木像に仕立ててそれを拝むのか。また、木材の半分を燃やして火にし、肉を食べようとしてその半分の上であぶり、食べ飽きて身が温まると『ああ、温かい、炎が見える』などと言う。残りの木で神を、自分のための偶像を造り、ひれ伏して拝み、祈って言う。『お救いください、あなたはわたしの神』と。彼らは悟ることもなく、理解することもない。目はふさがれていて見えず、心もふさがれていて、目覚めることはない。反省することもなく、知識も英知もなく『わたしは半分を燃やして火にし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。残りの木で忌むべきものを造ったり、木の切れ端を拝んだりできようか』とは言わない。彼は灰を食らい、惑わされた心は、その道を誤らせる。彼は自分の魂を救うことができず『わたしの右の手にあるのは偽りではないか』とすら言わない。」(イザヤ44:9-20)と言っています。

この言葉にはもはや説明はいりません。「自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」(ロマ1:22-23)そこで「その迷った行いの当然の報いを身に受けています。彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。 あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、 無知、不誠実、無情、無慈悲です。」(ロマ1:27-31)その結果として「彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。」(:32)このようにロマ書を見る時、明らかに人間のすべての罪の根源は、創造主なる真実の神様を無視し、信じない、受け入れないことにあることが分かるのです。
 イエス様は「わたしは、平安をあなたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。」(14:27)と言われます。「世が与える」ような「一時的な、刹那的な、消えてなくなる」ような“安らぎ”ではないのです。永遠に変わることのない平安、救い、解決であるのです。その根拠は活ける神、キリストの言葉です。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタイ24:35)私の言葉とは「キリストの言葉」です。キリストによって神様の愛に目覚め、キリストを愛する人は、キリストの言葉を守るのです。(ヨハネ14:23)キリストの言葉を守ることはキリストの言葉に生きることです。キリスト愛し、信頼しているからこそキリストの言葉に生きるのです。
 ここで主イエスは約束されるのです。「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14:26)イエス・キリストは十字架の出来事に進んで行かれます。ご自分の歩む道を自覚しておられ、弟子達と離別することを予見され、弟子たちが遭遇する試練を予期されているのです。弟子たちがイエス様が十字架に架かられた真実の意味を理解できずに、迫害の恐怖と不安のために混乱することを見通されているのです。そこでイエス様は「心を騒がせるな。神を信じなさい。」(14:1)「心を騒がせるな。おびえるな。」と言われるのです。「聖霊」は「弁護者」と言われ、この言葉はパラクレートス(παράκητος)と言い、「弁護者、援護者、助け主、代弁者」という意味であって、イエスはやがて世を去られるのですが、「聖霊」が、即ち、助け主、弁護者としてイエス様が「教えられたこと、話されたことをことごとく思い起こさせて下さる」(:26)のです。17節では「この霊があなた方と共におり、これからもあなたがたの内にいる。」と言われるように、第一に、イエス様の十字架の出来事の意味と話された教えの意味を聖霊は明確に理解させて助けて下さると約束しているのです。第二に、主は「あなたがたを孤児とはしない。」(:18)と言われています。“孤児”のように見捨てられた、迷える者にしておかない、聖霊は「助け主、弁護者」として守り、教え、導かれるのです。第三に、「父(神)は別の弁護者(聖霊)を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにして下さる。この方は真理の聖霊である。」(:16)これはイエス様の身体を伴っての臨在を、昇天後「聖霊」による新しい存在として、いつも、どこでも、共にいて孤児とはしないという現実を約束されているのです。第四に、16節の「別の弁護者」を送るということは、地上のイエスが弟子たちにとっては正に「助け主、弁護者」パラクレートス(παράκητος)であったことを想起して、やがて主イエスが十字架ですべての人の贖いとして犠牲になられ、三日目に復活される、そのことの真実の意味を聖霊によって教えられています。弟子たちは現実にはイエス様を見ることはないけれども、聖霊が今「共に」おいでになる、「助け主」「教導者」としておいで下さることを約束しておられるのです。 如何なる変化、「死」による消滅に遭遇しても永遠に変わることのない神様の言葉により頼み、存在の終わりのない永遠の命にある「平安」を生きるという確信を持とうではありませんか。「生きていてわたし《イエス咲か》を信じる者は、誰も死ぬことはない。あなたはこれを信じるか。」(ヨハネ11;26)死の克服は、人の生涯を襲う如何なる試練をも克服する力、聖霊の力、聖霊の慰めによるのです。

「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」(Ⅰコリント15:54-57)

 

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