2013年 3月24日 礼拝メッセージ 

「イエスの受難と神の愛」
ルカによる福音書23章13-43節

 今年の復活祭は3月31日で、次の日曜日です。復活祭前の一週間を受難週といい、「イエス・キリストの苦しみ」を偲ぶ週として「克己週間」ともいいます。克己とは、己に打ち克つという意味ではありますが、主のみ苦しみを偲び、贅沢を避け、清貧な生き方を求め、イエス様の受難を体現する日々を送るのです。カーニバルは謝肉祭と言われ、カトリック諸国を中心に行われる祭りですが、現在世界で有名なカーニバルはイタリアのフィレンツェ、ドイツのケルン、フランスのニースやブラジルのリオネジャネイロで行われるものです。これは復活祭を前に40日間断食と苦業の時を過ごすことになるので、その前に3日ないし1週間の間、肉を食べて無礼講でお祭り騒ぎをするのです。カーニバルは「肉よさらば」という意味であるのです。キリスト教の国となった国々では長い変遷の中に、信仰のある両親から生まれた子供は神の子供として幼児洗礼を受ける事が継承されるようになり、いつしか罪がつきまとう人間としての懺悔の代償として苦業を求めるようになっていきました。キリストを偲ぶことが苦業となり、罪の償いとなっていくのです。
 克己とは自分の力で自分に打ち勝つことですが、人は自分の苦業で救われるのではありません。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェソ2:8)自分の力や行いではなく、イエス・キリストの恵み、キリストの受難によって罪が贖われるのです。「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(Tヨハネ2:2)。「克己」という難行苦行によってキリストの受難を体感するのでなく、自らの罪を悔い改め、精神誠意回心して「主にゆだねる」、主の贖罪の恵みを新たに確信しなければなりません。ですからルターが教えるように、「よい業とはキリストを信じること」であるのです。だからこそ彼の宗教(信仰)改革の問題を提示した“95ヶ条の条文”の冒頭に「私達の主であり師であるイエス・キリストが、『悔い改めよ…』(マタイ4:17)、と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。」と記しています。使徒パウロは「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(エフェソ4:22−24)と記しました。イエス様を信じることは、イエス様の御言葉に繋がり、イエス様のみ言葉に生きるのです。そこにイエス様の約束される聖霊の実が豊かに結ばれます。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」(ヨハネ15:7)
 今、この受難週にあって受難の中でイエス様が辿られたメッセージを確認しなければなりません。イエス様の辿られたカルバリーへの苦難の道を知り、思い、体感することによって、その恵みと神様の愛を真実に生きることが出来るのです。
 イエス様が、十字架につけられる道を辿られるのは、「私達の罪、いや、私達の罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(Tヨハネ2:2)そして「御子をお遣わしになりました。ここに(神の)愛があります。」(Tヨハネ4:10)と聖書は証言しています。イエス様は最後に弟子たちに「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、“真理の霊”が来ると、あなたがたを導いて“真理をことごとく悟らせる。”その方(聖霊)は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(ヨハネ16:12,13)と言われています。弟子たちはイエス様が一人の人の出来事でなく、「全世界」の人々の罪を贖い、人々の罪の身代わりとなって犠牲となり、神の愛を実行されたことを認識することは出来ずにいたのです。しかし、約束の聖霊、真理の霊が弟子たちに臨む時、初めて明らかに「イエス様がキリスト、救い主」であると悟り、心から「イエスは主なりと告白する」のです。(Tコリ12:3)
 イエス様はゲッセマネの園で逮捕され、大祭司カヤパの裁きの庭に連行され、告発されます。イエス様の教えに人々が従うことを嫉妬し、批判していた当時の律法学者や祭司たちは、イエスを告発しようとします。人々はこぞってイエスを憎み、大げさに偽証するのです。(マタイ6:50)そして「神の神殿の倒壊と3日目に再建する」ことなどで中傷します。これは神様への不敬虔な反逆罪を指摘することになるのです。イエス様は黙しておられたのですが、大祭司はなお「お前はメシヤ(キリスト)か」と尋ね。イエス様が肯定されると、大祭司は服を裂き「神を冒涜した。証人はいらない。死刑である。」(マタ26:63−68)と言うと唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で頬を打ったのです。そして、司法権の最終決定権者である総督ピラトに最終判決を求めて告訴するのです。
総督ピラトは「わたしはこの男のことで取り調べたが何の罪も見出せない」と繰り返して言います。(ルカ23:4,14、22、ヨハネ18:38、マルコ15:14、マタイ27:23)それでもユダヤ人達は、「イエスを十字架につけろ」と言いはるので、終いにはピラトは「あなたがたがこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません。」と言います。ユダヤ人達は「私達の律法によればイエスは死罪に当ります。神の子と自称したのです。」(ヨハネ19:7)と言い張ります。 ピラトはイエス様に質問しても答えられないので「お前を釈放する権限も、十字架にかける権限もわたしにあることを知らないのか。」(ヨハネ19:10)と言い、過ぎ越しの祭りには恩赦があり、赦すことにしようと言うのですが、「暴動と殺人で告訴」されているバラバを赦せと群衆は叫ぶのです。そして群衆は「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」(ヨハネ19:12)とピラトの行政官としての皇帝に対する反逆罪という弱みを持ちだすのです。ピラトはユダヤ人がイエスを告発しているのは明らかに「ねたみであると分かっていた」(マルコ15:10)のです。群衆はいよいよ「イエスを十字架に、バラバを釈放せよ」(ルカ23:18)と叫ぶのでした。その不穏な状態を平定できないと判断してピラトは自分の行政官としての利害で群衆の要求をのんでイエス様を十字架刑に処する決断をするのです。
 イエス様は十字架を自ら担がされ、ゴルゴダ(髑髏(しゃれこうべ))という処刑場に向かわれ、十字架に架けられるのです。全く罪を認めることのできない方を十字架に架けるのです。処刑する者達は、キリスト、救い主と言いながら自らを助けることが出来ないのかと嘲笑います。しかし、イエス様は「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈られるのでした。そして約6時間にわたる苦悩の中で最期を迎えられたのです。人々はこの安らかなイエス様を見上げて「この人は神の子だ」(マタイ27:54)「本当にこの人は正しかった」(ルカ23:47)と告白したのです。
イエス様の十字架の受難の真実の意味である「全世界の人々の罪の赦し、贖罪」“この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。”(Tヨハネ2:2)は約束の聖霊が降るときに弟子たちに明らかにされるのです。「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14:26)
 キリストは予告された通りに死なれ、3日目に甦り、永遠の命に生きる真実を証しされたのです。克己週間はこのイエス様の十字架の出来事を深く心に留め、その十字架の意味を理解し、神様の愛に生きることを決意してイースターを待つのです。

「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ロマ6:23)

 

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