2013年 3月31日 イースター
特別礼拝メッセージ
 

「永遠の命に生きる幸せ」
ルカによる福音書24章1―12節

 クリスチャンにとって復活祭は最大の喜びの日です。復活祭は英語で
「イ―スター」と言います。明けの明星と言われる星で、初春の夜空の白む頃、東から出て来る金星です。この天体の動きを復活祭の出来ごとのメッセージとして昔から教会では語り伝えられてきたのです。夜は闇であり、人の世の空しさ、尽きることのない騒乱と不安の果てしなく続く世の移ろい、そこには真実の希望がなく、存在の意味すら見いだせない空しい現実を表しているのです。そのような夜にも朝は来るのです。その朝を告げるのが「明けの明星」です。その明けの明星は「復活」の出来事であり、太陽は如何なる時にも輝き続け、永遠の希望、神様の再創造になぞらえられています。「明けの明星」はその最終的な確かな約束としてイエス様の復活の出来事を表しているのです。東の星「イースター」を見る時、キリストの復活の出来事を感謝して永遠の命を確信し、その平安と希望を喜び分かち合うのが「復活祭」であるのです。
 すべての人の人生は例外なく「死」で終わります。日本では古来、死のことを寂滅(じゃくめつ)、又は、入寂(にゅうじゃく)とも言います。死ぬから静かになる、「煩悩」から解放されることを言います。煩悩とは人の情欲、心身を煩わせる妄念(もうねん)で、仏教では、人間には百八の煩悩があると言うのです。生きることは煩いであり、苦悩の連続であることを表しているのです。死は煩悩からの解放であり終りであるといいます。 
使徒パウロはロマ書の中で「罪が支払う報酬は死です。」(ロマ6;23)と言っています。罪とは人の守るべき道を踏み外していることを意味します。人の守るべき道とはパウロはこのように言います。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(12:2)“何が神の御心であるのか”“何が神に喜ばれるのか”ということが基本になるのです。“神の御心に生きる”ことこそが“神に喜ばれる生き方”であるのです。それがイエス様が言われた“道”です。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)イエス様の示された“道”こそが“揺るぎない真理”の道であり、“命”の道、人を生かす道であり、その命は平和の道であるのです。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(14:27)と言っておられるのです。口語訳では「わたしが与えるのは、世が与えるようなもの(平和)とは異なる」となっています。平和とは信頼と真実、誠実に裏付けられていて真実で、変わらないものとなるのです。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタイ24:35)神様の言葉は不変です。言換えれば、神様に信頼を置かないことが「罪」であるのです。
イエス様は、人は死で終わるのでなく甦り、新しい創造と共に永遠に生きる者とされると言われています。「イエスは言われた『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」(ヨハネ11:24,25)と言われ、マタイによる福音書16章でも「イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」(:21)「人の子は三日目に復活する」(20:28,19。27:63)と繰り返し弟子達に言われていたのでした。コリント第一の手紙15章のはじめには「聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」(:4−8)と記しています。弟子の内でトマスは甦られたイエス様のことには懐疑的な弟子でした。他の弟子たちがいた時に部屋に現れ「平和があるように」と言われ、手とわき腹の傷跡をお見せになったのです。そして「聖霊を受けよ、父が私を遣わしたように、あなた方を遣わす。」と言われるのでした。(ヨハネ20:19−23)この感動的な出会いをトマスに語って聞かせると、そこにいなかったトマスは憤然として「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言うのです。それから一週間がたちました。弟子達とトマスは鍵をかけて部屋の中にいるとイエス様が真ん中に立ちトマスに言われたのです。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(:27)トマスは「わたしの主、わたしの神よ。」と告白したのです。イエスは「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。」と言われたのです。(:23)
 復活の信仰はキリスト教信仰の基礎であり中心であるのです。キリストに救われることは神様との関係を断ち切っていた罪を赦されることにあるのです。罪赦され神様との関係を回復することは、有限の命から無限の命、即ち、永遠の時を生きる命に目覚めることなのです。
 使徒パウロは復活信仰について「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。…この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(Tコリント15:12−20)と言っています。
 第一に、イエス・キリストを信じることは永遠の時に目覚めることです。有限の日々から無限の時に生まれ変わることなのです。存在の消滅は時間の終わりです。復活の信仰は神様と共に永遠に生きることを言います。永遠に生きることは失うことのない永遠の命に生きることです。
 第二に、永遠の命とは活ける命の根源である神様と共に生きることであり、現実の如何なる試練の中にあっても愛と全能の神によって希望を持ち続け、力強く生かされるのです。ヤコブの手紙には「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」(ヤコブ1:2−8)疑うこと、神様を疑うことは、神様との関係を断つことを意味します。復活の主は、全能の主であるのです。不可能を可能にする主であるのです。
今回の読書会のテーマ課題は「ちいロバ先生」でした。戦前戦後の青少年期を満州という異国の混乱の中で生きる希望をなくす中で、イエス・キリストに出会い復活を経験するのです。死んだような絶望感の中から青年榎本保郎は神に仕える人となりました。イエス様は使命を果たすために「子ロバ」に乗ってエルサレムに入城されたのですが、正に自分がその「子ロバ」になり神様の愛と救いを多くの人々に伝えようと献身し、キリストに仕えた52年の短い生涯の記録です。生きていながら死んだように希望のない人を甦らせられる命、力と希望の命、永遠に失われることのない命、それはイエス・キリストが約束される救いの命であるのです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
(ヨハネ3:16)

 

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