2013年 4月7日 礼拝メッセージ 

「イエスが遺された言葉」
マルコによる福音書16章14―20節

 春は新しい出発の季節であり、また別れの季節でもあります。ボーイズビ― アンビシャス イン クライストBoys, be ambitious in Christ、「キリストにあって、少年よ大志を抱け」 は有名なクラーク博士の別れの言葉です。クラーク博士は明治九年、当時、マサ−チュセッッツ農科大学の学長であったが日本政府の要請を受けて札幌農学校の教頭として来日し、短い間であったけれども有能な人材を輩出しました。内村鑑三や新渡戸稲造などプロテスタントの重鎮となる人材を育成したのです。今日では北海道だけでなく日本中で「少年よ大志を抱け」という言葉は知られています。最後に残された言葉は聞く人々の行く道を決定させる力があるものです。
 新約聖書は英語でニュー・テスタメントと言いますが、テスタメントは遺言であり誓約、契約という意味です。イエス様の残された事績、言葉、教え、その働きの継承の出来事の展開が記録され、遺されているのが新約聖書なのです。その中でイエス様が最後の別れに際し遺された言葉は、イエス様の使命を弟子たちに託された言葉です。それはマルコによる福音書の16章の15節、「イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。』」というお言葉です。イエス様は公の生涯に入られると「神の福音を宣べ伝え『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」(マルコ1:15)のでした。
福音とは正に“よい知らせ”“嬉しい知らせ”という意味であって、神様の恵みが現わされたことを告げることです。どのような罪、汚れであっても真実に自覚して“悔い改める”人を神様は受け入れて下さり、罪赦されるための払い得ない代償であったとしても払って下さるのです。イエス様の無限の愛は、義は行いによってのみ完成されるという、内面的な罪性を自覚しないで偽善的に対決する人たちに十字架刑に処せられるという出来事に表されています。イエスは言われます。「人の子(私)がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人の(罪の)あがないとして、自分の命を与えるためである。」(マルコ10:45口語訳)ヨハネの手紙Tの2章の1、2節では「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」キリストの福音は全世界の人々の罪性を根本から解決し、救うためであることが明記されています。 最後に語られたイエス様の言葉、即ち「全世界に出て行って福音を伝えよ」というみ言葉は、クリスチャンの生きる目標であり、使命であるのです。「福音」を伝えることは、「福音」に生きる人にしかできないことです。神様の恵みと愛、愛されている私を生きる、イエス様の福音を生きることこそ真実にして最大の幸せであることを経験しているからです。何故なら、イエス・キリストを信じて生きることは「平和の根源である神があなた方と共におられる。」(ロマ15:33)ことです。即ち「平和の根源」こそ「希望の根源」として生かされることが教えられているのです。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」(ロマ15:13)
 私の友人であり、同労者である佐藤さんは東北の農家の出身でたくさんいる兄弟姉妹の三男坊で、戦後の荒廃した社会情勢で職を求めて上京し、就職難の中で東京の築地の市場に就職しました。朝は早く、夜遅くまで時間に追われ、休む時間もない日々の中で目標もなく生きることが辛く、疲れ果て空しくなっていたのです。或る時、池袋近くの都電の停留所の前に教会があり、その看板に「すべて労する者、重き荷を負う者、我に来たれ、我汝らを休ません。」(マタイ11:28文語)と書いてあるのを見て「休ませてくれる」と書いてあるので、たまたま扉があいているので中に入り、誰もいない暗い会堂の最後列のベンチに横たわると鼾をかいて眠り込んでしまったのです。ぐっすり眠っていると誰かが肩をたたくので気がついて起きると年配の牧師先生がいたのです。優しく柔和に語りかけてさる言葉から、「休ませてくれる」のなら何でもよいと思って入って来たところで「休ませてくれる」方が、「イエス・キリスト」であることを知るのです。生きることに疲れ、生きる目的が分からなくなり、希望を見失っている彼は神様の愛を知らされ、真実の安らぎを見出したのです。ただ生きて、刹那の快楽に自分をごまかし、時間に追いかけられる日々の中にあっても、神様に愛されている自分を見出したのです。不幸の根源は創造主なる真実の神様を信じないことであり、それが罪であることを知り、イエス・キリストを信じて変えられたのです。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」(ヨハネ14:27)この言葉に支えられて、生きる目的と生きる希望と喜びを与えられ、新しく生まれ変わったのです。「全世界に出て行って福音を伝える」人生へと変えられたのです。
 福音を伝えることは、福音に生きることです。イエス様は弟子たちに最後に言われたのです。イエス様を信じる人には神様の現実的な経験として聖霊、即ち、真理の霊、イエスの霊が臨み、リアルに生活の中で生ける神様を理解し体験させて下さると約束しているのです。(ヨハネ14:26、16:13)「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)福音を真実に経験することは、イエス・キリストに出会うことであり、キリストに表された活ける神様の愛を体験することであるのです。その人は「福音」を語らざるを得なくなるのです。喜びであり力であるのです。使徒パウロは言っています。「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」(コリントT9:16)イエス・キリストを信じ「福音」を伝えないことは不幸であるのです。だからこそパウロは告白します。「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」(9:23)
 私達も、福音に生き、福音を語り、福音を伝える人であることを日々確認しようではありませんか。先ず、福音は理論ではなく、単なる教えでもなく、人を生かす命であり、活ける神に愛されている喜びであるのです。福音を伝えることは第一に、イエス・キリストを信じる信仰によって、神に愛されている自分を発見し、その「喜び」を語ることです。第二に、活ける神様に生かされている「感謝」を讃えることです。第三に、イエス・キリストの素晴らしさを「賛美」することです。そこからキリストの言葉が体験的に解る道へと導かれ、イエス・キリストにある命と真理の尊さを体験することになるのです。
「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父(神)のもとに行くことができない。』」(ヨハネ14:6)

 

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