2013年 4月14日 礼拝メッセージ 

「イエスに生きる新しい命」
マタイ福音書3章1−12節

 人は、おい育った生活環境、又、歴史や伝承の中で生まれた習慣による考え方を無意識に受け入れて成長し、それが固定観念になることが多いのです。18年前のことですが、わたしたちの教会の開拓と初期の会堂建設に貢献して下さったジョンストン先生のお墓を訪れる為に、オレゴン州にあるアルバニーを訪れました。子息であるキース兄の、郊外にある広大な農場の屋敷に泊めていただくことになったのです。その後、当時ロスアンゼルスにおられたニッパー先生やシアトルのフリボールド先生のお宅に寄るので、お土産に何が良いかと渡米する前にデパートに行き、喜ばれるものは何かと探し求めてみました。キースご夫妻には日本の風情を表す「風鈴」を選び、上質の良い品を届けたのです。夕食は、広いテラスで広大な緑の平原を見渡しながら、バーベキューパーティーを催して下さり、久しぶりの再会を喜んで、和やかな交わりの時をもちました。プレゼントの「風鈴」を庭先に下げて「チリン、チリン」という独特の心地よい音を聴きながら、喜んでにぎやかに食事が続いていました。その日は終わり、朝になってテラスに出て見ると「風鈴」がなくなっているのです。そこで“「風鈴」はいつもぶら下げて音を楽しむのですよ”と言うと、キース兄は“風鈴の音が気持ちが悪い”と言うのです。日本では暑い季節「風鈴」の音を聞くと、「涼風」を感じて心地良い風情を感じるのですが、オレゴンの広大な自然の中で生活するアメリカの人の感性は違うんだなーと思ったのです。環境が違い、時代が違うなら、いつの間にか培われた情緒や感性、思考傾向が固定することが解るのです。
 イエス様の先導としてバプテスマのヨハネが遣わされた出来事が、4福音書に記されています。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの準備をさせよう。」(マルコ1:2)とあります。ヨハネは人々に「悔い改めよ。天国は近づいた」と叫び、どのような人にも天国、即ち、「神の国」が近づいたのだから、心を新たにして神の時を待ち望むことを勧めるのでした。福音書ではマタイ伝にだけ「天国」という表記があり、他の場所では「神の国」という言葉が表されています。勿論これは同じことを指していますが、マタイ伝はユダヤ人のために記された福音書だと言われるように、ユダヤ人の伝統では「神」という言葉を表すことを戒められていたのでした。(出エ20:7)そこで「天の国」を用いたと言われています。どちらにせよ「天国」も「神の国」も神のおられるところであるのです。伝統的に旧約聖書による神そのお方、神の「メシヤ」救い主がおいでになるという預言に基づいて、神の国の実現を待ち望んでいたのです。当時のユダヤの世情は、ローマ帝国の圧政に人々は疲弊し、圧政と隷属の苦しみに耐えていたのでした。そのような時「神の国は近づいた」と叫ぶ奇妙な人が荒野に現れたというのです。この人、「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。」(マタイ3:4)と言われていました。これはユダヤの伝統的な修行者ナジル人であり、世俗を離れ、禁欲と節食、駱駝の毛皮衣を纏うという修行者であったと言えます。しかし、その言葉に共鳴する人達がユダヤ全土から集まり、彼の言葉に耳を傾けたのです。「天国の実現は近い、懺悔し罪を悔い改めよ」と言って受け入れる人々、神様を迎えようとする人に決断を迫ったのです。その悔い改めのしるしとして水のバプテスマを施したのでした。当時、水のバプテスマを洗いの儀礼として施すのは、異邦人がユダヤ教に改宗した時に施しました。一般庶民はユダヤ人でありながら律法やミシュナ(律法の詳細解釈規定)などを十分知らなかったのです。アブラハムの末裔は神の選民として天国に行けると言われながら、かれらの多くは字も知らないし律法が読めない、読めない者は律法を守ることが出来ないなどと差別を受けていたのです。(使徒4:13)この人たちは罪を悔い改める者は天国に迎えられると聞いて、続々とヨハネの洗礼を受けにきたのです。それだけでなく律法をくまなく知り、守って天国に行けるのだから、洗礼を当然を受けようとパリサイ人(律法を守り、正しく生きていると思っている清め派)、サドカイ人(祭司階級や支配している貴族)もやって来たのです。そこで洗礼者ヨハネは、「最も大切なことは、悔い改めに相応しい実を結ぶことである」(マタイ3:8)と言います。アブラハムの子、子孫は神に選ばれた選民であり、誰ひとり滅びないなどと思っていながら、律法を充分知る、知らないで人を差別し、見下げ、区別していることは愛なる神様の御心と言えるのだろうか、と言うのです。「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(マタイ3:9,10)思い違いをしてはならない、自分では「アブラハムの子」であると言いながら人を見下し、差別しているお前らこそ神様の裁きを受ける者である。神様はそこらにある石ころからでも「アブラハムの子」天国を受け継ぐものを起こすことが出来るのを知るべきであると言うのです。だから、思い違いをしないで神様の御心を受け入れいなさい。その神様の真実の御心を示すのは「私」(ヨハネ)ではない、わたしの後から来られる方(イエス・キリスト)であり、私よりはるかに優れた方であり、履物をお脱がせする値打もない(神である方イエス)であると言い、そして「この方こそ聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」と言うのです。聖霊は、信じる人に活ける神と共に生きる経験をさせて下さる神様そのお方であり、聖霊で洗礼を授けるとは聖霊に満たし、人の罪、即ち、その悲劇の根源である神様の真実のみ心から離れている愚かさを自覚的に悟らせて下さり、火は、聖霊の力、効力である神様の御心に目覚めさせて下さる働きを表すのです。
 ヨハネのバプテスマは「悔い改めのバプテスマ」であってイエス様がキリスト(救い主)としてお出でになる。換言すれば、神様の御国、天国が近づく、どのような人にも「罪を悔いめ、福音を信じる人」(マルコ1:15)に天国は約束されているのです。「福音」良き知らせ、正に、すべての人のため、罪のために犠牲となって贖いとなられた十字架の出来事、そして、死で終わることなく、復活して新たなる神の国、天国に生きる、真実に神様と共に生き、神の愛に生きる神の国の安らぎ、平和が約束されているのです。
 ヨハネ福音書では「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(14:26)とイエス様の言葉を記し、「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」(16:13)と言われている通り、イエス様の弟子達も誰ひとりとしてイエス様が十字架に架けられ、葬られ、三日目に甦るという出来事が何を意味しているのか解らなかったのです。しかし、ペンテコステの日にエルサレムで祈っていた120人の弟子たちに聖霊が降る経験、聖霊のバプテスマを受けた時に、弟子の最年長のペテロを通して「アブラハムの子孫」の歴史を通して約束されている真実のメシヤ(救い主キリスト)の来臨の現実を自覚するようになるのです。
「アブラハムの子孫」は救いに選ばれている民族でなく、「アブラハムの子孫」は「神様が真実の神であり、人類の救い主」であることを証しする民として選ばれているのです。
 パリサイ人やサドカイ人は、選民「アブラハムの子孫」として約束されている使命を、長い間の様々な人々との交流や争いの歴史の中で、いつの間にかゆがめて伝承し、間違えて仕組みを考え、神様の愛と聖、その御心から離れていることに気付かずに自己を絶対化し、神様の御心を変えてしまっていたのです。
 風鈴の例で見るように、風鈴の音を心に嫌に感じる風習は、ある人々に心地良い涼に感じさせ、少しでもそこにそよ風が吹く思いを共感できるように、微風のあることを連想する詩情の世界を感じる風情であるのです。ある長い間の生活の習俗で否定し、嫌悪してしまうのです。
  「聖霊と火のバプテスマ」の経験は、自己の内に形成された思いと感覚で理解しようとする世界を捨てて、イエス・キリスト「福音」、神様の犠牲の愛による救いを受け入れてこそ、全く新しい神様の愛の命がそこに生まれ、経験し、神様に生かされる天国を体験するのです。 「悔い改めて福音に生きる」(マルコ1:15)ことになるのです。福音に生きることは、神様と共に生きることであり、イエス・キリストにある新しい命に生きることになるのです。有限な世界、常に変化する世界、空しい現実であったとしても、そこにイエス様が活ける神として福音に生きる人と共におられる。イエスがおられる、そこが天国、神の国であるのです。神の国は永遠であり、不変です。変わることのない真実、神の国の真理がイエス様にあるのです。それは福音であります。赦されて生きる永遠の喜びがあります。

「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。
わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。
だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ロマ8:31−39)

 

 ページのトップへ
  
2013年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ