2013年 4月21日 礼拝メッセージ 

「イエスの命、愛と恵みに生きる」
使徒言行録1章1−11節

 人が生きるには食事をしなければならない。食欲のないことは死を意味することになる。日常、何げなく美味しい美味しいと言って食事をしているけれども、食欲が無くなると何を見ても欲しくなくなる。先日、就寝中に激しく嘔吐し、繰り返すうちに止まったのですが、食欲がぱったりなくなったのです。緊急に点滴を受けたのですが、食欲不振が一週間位つづきました。教会では皆さんが祈りの手を挙げて祈ってくれました。丁度一週間目に回復したのでした。食欲が無くなると、どのように普段好きな食べものも手をつけられないという経験をしました。普段通りに食欲が出ると食べるものが美味しいのです。健康でいることの喜び、生かされていることの感謝がこみ上げるのです。
このことを通して食事が出来る感謝、見えることの感謝、話せることの感謝、聞こえることの感謝がこみ上げるのです。そして歩けることの感謝、手が自由に動く感謝です。自分の生きていることをめぐって静かに溢れる恵み。生かされていることを奇跡として実感する経験でした。普段は気付かないこの経験を通して、大きな神様の恵みと感謝を実感できたのです。
 私達が気付かないし、全く知り得ないようなことが、神様の御心の内に配剤されていることが分かります。人は、身体的に生きるのですが、その身体を健康に支えている仕組みの不思議は計り知れないものがあります。人は、体の健康によって生きることと共に、神の恵の命が真実に生かされて、初めて人として生きることになります。ロマ書に「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。」(8:5、6)と使徒パウロは記しています。ここで言う肉とは身体であって、身体的な満足と喜びを求めること、物質的な満足を求めてもやがて死をもって終りになることを指摘しています。「肉」に対して「霊」に属することを考え、「霊」に従って生きる人には“死に対する命”永遠に尽きない「命」に伴う真実の「平和」があると言うのです。人は「霊と魂と体」から成り立っているのです。(Tテサロニケ5:23)本来、人に備わっている「霊」は「霊なる神」を認知する機能を与えられているのです。ヨハネによる福音書4章24節で「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」と主イエスは言われているのです。人は「霊」によって「霊なる神」を受け入れ、認知し、自覚的に神様の御心に生きるものとされるのです。霊に生きることこそは神様の御心を信じ、理解し、御心に生かされる事なのです。神様を信じることは人の霊の目覚めであるのです。
 使徒言行録は、弟子たちがイエス様の受難後、復活のイエス様に出会い、どのように変わり、試練と迫害の中を宣教していくかを、ルカが福音書に続き記録し、残しています。イエス様は復活の後、御自分が生きていることを、弟子たちに多くの証拠を持って40日にわたって示されたのです。(使徒1:3)バプテスマのヨハネは、「後に来る方(イエス)が聖霊による洗礼を授ける。」と話しました。(1:5)そして、弟子たちは「神の御国」が来るのはその時なのでしょうかと問うたのでした。それは、ローマ帝国の支配を改革し、ユダヤ人は神の選民であり、世界の制覇者として、救い主を迎えるということを、神が実現されるというものでした。イエス様は「人の子(キリスト)は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金(贖い)として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:45)又「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。『神の国は、見える形では来ない。“ここにある”“あそこにある”と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:20,21)と、地上の王として来られたのではない事を語られているのです。
 そこでイエス様は、天に還られる前に、最後に「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:7,8)と言い遺して弟子たちが見ているうちに天に帰られたのでした。
 ここで約束された「聖霊が降る」ことこそ、「聖霊によるバプテスマ」であるのです。イエス様が公の生涯に入られる時、バプテスマのヨハネが「この方(キリスト)は、聖霊と火であなたたちに洗礼を授けになる。」(マタイ3:11、ヨハネ1:33)と予告したのでした。そしてイエス様が、いま正に、地上を去られる時、「聖霊が降る、その時、“力”を受けて、“地の果てまで”“わたしの証人”となる」と宣言されたのでした。
 使徒言行録2章で、イエス様の言葉に導かれて弟子たち120人はマルコの家に集まり祈っている時に“聖霊のバプテスマを受ける経験”をするのです。一同に、今までに語った事のない言葉でそれぞれが祈るという現象が起こり、道行く人々が、“何事が”起こったのかといぶかり、集まって来たのでした。その時、弟子たちの長老格のペテロは、聖霊に導かれて旧約聖書のヨエル書を示され、人々に話し始めるのです。今このことが起こっていることについて「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ、…主のみ名を呼び求める者は皆、救われる。」(ヨエル3:1−5)を聴かせ、イエスが神から遣わされた神のキリスト(救い主)であることを明確に証しするのでした。人々は心を打たれ、罪を悔い改めてイエス・キリストが十字架に架かり、全人類の(自分の)罪のために犠牲となり、贖って下さり、イエスを信じる者は“神の国”に生きるものとされたことを信じて、洗礼を受けるのでした。そうして賜物として「聖霊」を受けると勧めたのでした。そこで驚くことに3千人の人々が洗礼を受けたのです。この出来事を通して歴史にキリストの教会が成立したのでした。
 ここにキリスト教信仰の基礎があります。信仰は、知性や理性を越えた「霊的な経験」であるのです。真実に人を生かす、理性や知性を生かす「霊性」の命であるのです。それは命と存在の根源である神様を、現実に生きる生活のただ中で体験する目覚めであるのです。その目覚めこそイエス・キリストの十字架と復活の出来事によって示され、語られた神の愛と救い、神様と共にある「神の国」を現実的に体験する恵みであるのです。変わらない真実の平和、平安を実感する、永遠の命に生きる喜びを意味するのです。
 「聖霊を受ける」ことは、第一に、人の内に無自覚になっている神様を認識する「霊性」の甦りであるのです。形だけではなく、真実に人間の根源をなす「霊性」の自覚こそは「聖霊」の働きであり、その聖霊はいつでも誰にでも心を開く人を求め待ち望み、尋ね続けるお方であるのです。「主に望みをおく人は“新たな力”を得る。」(イザヤ40:31)と約束しているのです。生まれながらの「肉」の思いではなく、人が本来、神に“似せて造られた”霊性を回復する新しい経験であるのです。第二に、その根源的な神認識は、神様を表されたイエス・キリストによって道が開かれるのです。「イエスは叫んで、こう言われた。『わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。』」(ヨハネ12:44−45)事実、イエス様は、神様の愛を語り、すべての人に開かれた「神の国」を伝えながら、この世の権力と知恵に生き、混乱と虚無の闇にある人には受け入れられず、逮捕されて十字架に架けられたのです。しかし、責め立てられ、苦しめられ、辱められても彼らを赦し、赦すのみならず、祝福されるのでした。神の愛に生きることを示し、神様の真実の姿をイエス様は示されたのです。この十字架のキリストを通して「聖霊」は人の心に明確に神の実体である「神の愛」を弟子たちに認識させてくださったのです。イエスは言われていました「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14:26)
 第三に、聖霊は信じる人に共にいて下さる「活ける神」であるのです。「聖霊」という神様そのお方としての位格を信じる人と共にいて、守り、助け、支え、導いて下さるのです。「神は愛である。」(Tヨハネ4;8,16)であるのです。神なる「聖霊」は「キリストに表された神の愛」、即ち「命」、生き、躍動する霊的生命によってクリスチャンが生きるようにして下さるのです。この「愛」即ち、「命」こそ、生まれながらの「肉」を真実に神に造られた者として祝福して生かす命であるのです。この神様の愛の永遠性こそ、「永遠の命」に生きることにほかならないのです。時を越え、無限に変わらない希望の道であり、真理の道、命の道であるのです。(ヨハネ14:6)
第四に、聖霊のバプテスマは「聖霊と火のバプテスマ」(マタイ3:11)であるのです。この「火」は「聖霊」の性質を表しています。火は、あらゆるものを燃えつくします。精錬するのです。純化することを意味します。神様から離れた「肉」なる思い。ギリシャ思想では「肉」は罪悪を表します。「肉」(体)からの解放が、魂の救いという思想がありました。イエス様の約束は、決してそうではなく「肉」、即ち、人が生きる現実、生活そのものを分離しているのでなく、神様を信じる「霊性」の回復こそが、真実に「肉」を活かし、永遠の命への回復を約束するのです。そのために徹底的に罪悪を焼き尽くす、「きよめ」の働きを持って命を保って下さるのです。だからこそ「火」のバプテスマは誘惑と試練の連続である現実の生活に働きかけて、守り、導く働きを続けて下さることを教えているのです。
クリスチャンは聖霊の恵みを慕い求め、導かれて生きるのです。
「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(ガラテヤ5:22−25)聖霊の火こそ、人の内にキリストの愛、神様の愛、神様の霊性の命として生かされている喜びの経験であるのです。その喜びは命の発露となり、「力」となり如何なる試練、如何なる困難をも克服する「力」となり、「希望」となるのです。その「喜び」は、福音の喜びであり、世界宣教へと進ませて下さる「力」であるのです。全ての人がキリストの愛にいかされ「神の国」に生きる希望を持って、「神の国」を伝えるのです。「聖霊を受ける時、『力』を受ける、」(使徒1:8)約束の力なのです。

イエス様の「神の国」は、この世の政治体制を支配することをいうのではなく、人々が、神様の霊的命、即ち、神の愛に生かされ、神の愛で愛し合うところに「神の国」、真実の平和の実現と希望が約束されているのです。十字架に表された神様の愛の実現こそが「神の国」の約束であるのです。この世の争いと不信、憎しみと不安は世界に尽きないのです。「イエスは、天に行かれるのをあなた方が見たのと同じありさまでお出でになる。」(使徒1:11)再臨の時にこそ再創造が現実となり、神の平和が真実に支配する世界が約束されているのです。

 

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