2013年 4月28日 礼拝メッセージ 

「新生による神の国」
ヨハネによる福音書3章1-15節

 人には思い違いということがあります。それが誤解となります。思い違いが固定化されると、それが真実の光に照らされても凝り固まった気持ちは容易(たやす)く変えることは出来ないものです。長い時間の中で思い違いが社会の通念となって人の生活をゆがめてしまうこともあります。長年他の大国に支配されて、屈辱され、差別的な圧政を受け続けると、民族的な自負心と誇りが屈折して劣等意識が自己顕示になって、反対に他の人々、国々を見下げ、差別し、蔑視するようになります。果てしなく憎しみと争いの連鎖が続くことになるのです。相互が謙遜になってお互いの思いを話し合い、聴き、尋ね、確かめ、相互に認め合い、思いやり、間違いを謙虚に認めて融和でき、真実の平和が結実できると言えます。安易な妥協は一時しのぎにすぎないものです。イエス・キリストは「神の国」の福音、真実の平和、神様の支配される国を実現する希望を教えられたのです。ヨハネ福音書の3章で、ニコデモに「あらたに生まれなければ、『神の国』を見ることは出来ない。」と言われました。「神の国」は神様の支配を意味します。使徒パウロは「神は平和の根源」(ローマ15:23)と言っています。その平和こそが希望の源として現実を克服することを示しています。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」(ローマ15:13)
 ヨハネによる福音書の3章は、2章の23節から最後の節を受けて続いているのです。イエス様がエルサレムにおられる間、様々なしるしを表されるのを見て人々はイエス様を信じたのです。「しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、…イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」(ヨハネ2:24,25)イエス様を信じていると言いながら、そこには「思い違い」があったということになります。神殿でイエスが教えられ、不思議な業をなさることによって多くのユダヤ人たちは、この人こそ神様から遣わされた教師であり、指導者であると信じたのでした。しかし、イエス様はご自分の伝えようとする「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)という真意を理解して信じていないことを見抜かれているのです。そこでヨハネの3章のニコデモの話になるのです。
 ニコデモはファリサイ派に属していました。ファリサイと言うのは人々が付けたあだ名であって、いつの間にか呼び名になっていました。それは「分離する」「区別する」というような意味であったのです。律法を厳格に守り、自分たちこそ神の御心に生きるという自負心に満ちた人たちでした。そしてニコデモは「ユダヤ人たちの議員」であると記しています。ユダヤの政治や生活の律法の解釈などを決める国家の最高衆議所の議員であったのです。正に、人々の生活を規定し、指導する権威を持っていたのでした。しかし、神に選ばれた民、人々を支配する権威を与えられていると思っているのに、現実はローマ帝国の権力者に見下げられ、抑圧され、搾取される屈辱、神を知らない、信じない民に支配される矛盾に、屈辱と反抗、そして忍従の苦悩にあったのです。神の民に約束されている「神の国」を待ち望んでいたといえます。その「神の国」とは、ローマ帝国を征服し、世界を制覇するという選民ユダヤ民族の希望であり、信じていた「神の国」であったのです。屈辱にあるユダヤの指導者、権力者である衆議所(サンヒドリン)の議員は、やがてイエス様が福音を語り、真実の神の愛の道、救いの道を示される時、弾圧を始め、迫害するのです。イエス様の福音を理解しようとしないで、聖書の救い主の約束を、屈折した伝承の中で築かれた「思い違い」に捕らわれて、イエス様を拒み、裁き、十字架に追いやるのです。このような集団となった衆議所の議員でありながらニコデモはイエス様を求めるのです。ニコデモは決してイエス様への過激な批判者、迫害者ではなかったといえます。何故なら、ニコデモはイエス様の最後の時、埋葬の準備で没薬、沈香をもって遺体を亜麻布で包んだのでした。(ヨハネ19:50)確かに、イエス様の十字架刑の決定を下し、総督府に提訴した衆議所議員であったのですが、ニコデモはイエスの理解者として議員の務めを果たしたといえます。 ニコデモは、批判的な衆議所の議員や指導者として人々に与える影響などを思いはかって「夜」人目を気にしながら密かにイエス様を訪ねたのでした。
 ニコデモは「ある夜、イエスのもとに来て言った。『ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。』」(3:2)神の言葉を教え、不思議な業を行うイエス様に、神様が遣わされた教師、律法を教え、神の道を示されているあなたは、確かに「神が共におられます」。この言葉は「神の国」を想定する意味があると言えるのです。「神の国」は「神のおられる所」であり「神様の支配」されている所を意味するのです。言換えれば神様の御心が現わされていることです。このように言っているニコデモに対してイエス様は「本当のことは分かっていない」と言われているのです。「思い違い」をしているのです。
イエス様は「はっきり言っておく」と言われます。実は、この言葉は「アーメン、アーメン」(άμήν άμήν)であるのです。言っていることは「真実である」「本当にそうだ」という意味です。間違ってはいない、「本当のこと」を言っているのです。言換えれば、思い違いをしないようにということになります。「人は新たに生まれなければ、『神の国』を見ることは出来ない」と言われた言葉にニコデモは「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」(3:4)と言います。母の胎から生まれて来ることは不可能ですと言うのですが、20歳や30歳なら人生もやり直しがきくでしょうが、この年(70~80歳)になっていまさら人生をやり直すことは難しいのではないですか?と言っているのです。イエス様は「新たに生まれるのでなければ」と言われているのです。「新たに」とニコデモは解したのですが、この言葉はアノーセン(άνωθην)「上から」と言う言葉であって、謎めいた言葉であるのですが、その真意は「天から」「神から」の意味であるのです。「神様によって生まれ変わらせていただかなければ」本当に「神の国を見ること」はできないのです。その「見る」ことは経験することであって知性と理性を越えた霊的な経験であることを指しているのです。
 イエス様は5節で「アーメン、アーメン」と再び、「本当に真実に」という言葉を繰り返されます。「はっきり(アーメン、アーメン)言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(ヨハネ3:5)「神の国」、神が共におられる経験は、「水と霊」によって生まれることによってなされる。水と霊は明らかに悔い改めと罪の赦しの洗礼を意味し、聖霊による上からの、神様の御力によって人の根本的な霊性を甦らせられなければ決して経験できるものではないのです。
 そしてイエス様は、「新たに生まれ変わると言ったからと言って驚いてはならない。」不思議に思ってはならないと言われます。(:7)「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(:8)聖霊の本質を人の思いで知ることは難しいのです。使徒パウロも「神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。」(Ⅰコリント2:11-14)と言っています。聖書では、「風」「吹く」「息」をプニューマ(πνεύμα)、「息をする」をプネオー(πνείω)と言って「霊」を意味する言葉になるのです。確かに風の実態を把握し、形態を明確に出来ません。
 わたしは多様な宗教環境の家に育ちました。家は臨済宗。祖父は彫刻が上手で弘法さんの木像を彫って真言宗に傾倒していました。台所には愛宕山のへっつい(竈)の神さんを祀り、神棚にはもろもろの神社のお札が祀られるという環境であったのです。父親は朝起きると般若心経を諳んじて唱和するのでした。神さんも仏さんも同じであり、先祖を敬うことがないと苦しんだり、病気になると教えられるのでした。やがて、友達のお兄さんからもらった聖書により、創造主なる神こそが真実の神であることを知るのでした。その後、東京の学校で学ぶようになり小岩の家庭集会に導かれ、若い元気な伝道師の話を聴いたのです。「人は、どんな人間でも罪を犯している。罪を悔い改めてキリストを信じなさい」という単純なメッセージであったのです。その時、ただむやみに「自分は罪を犯していない」という反抗心が湧くのでした。そこでロマ書の一章にある罪の目録を示されるのです。「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。」(ローマ1:29-32)これを読んでもそんなに大げさに言わなくてもという感情になるのでした。しかし、一つ「親に逆らい」という言葉が心にぐさっと刺さったのです。小さい時に死に別れた母親を思い、二度目の母に酷く反抗したのでした。怒られれば生みの母はもっと優しいに違いない。優しくされれば生みの母ならもっと良くしてくれるとひがむのでした。このことが心に痛く示され、深い罪の自覚となり、真実の創造主なる神を知らなかった、信じなかったことへの罪悪観となって悔い改めに導かれたのでした。一人で生きてきていると思っていた自分が、神様の自然の創造の摂理の中で生かされている事を発見したのです。その罪のためにイエス・キリストが十字架に架かられ、真実の神の愛と実像を十字架の出来事を通してお示しになったのでした。それは自覚しないうちに神様のみ思い、聖霊が心に働きかけて下さり、神の愛としての聖霊が導き、真実の神様に出会うようにして下さったと言えるのです。
 「神の国」を見たのです。神様に生かされている自分の発見です。神様が見えているようで見えないニコデモに、「新しく生まれ変われ」と言われたのは、聖霊によって生まれ変わり、「神様を正しく信じないこと」が罪の根源であることを深く悟り、悔い改めることこそ「水と霊によって生まれ変わる」ことに他ならない事をしめされたのです。
わたしのためにキリストが贖いとなって下さったことから、その神の真実の愛に生きる。キリストを言葉、神様の御心に生きる「喜び」、「神様の栄光のために生かされる喜び」を生きる人に変えられるのです。
「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」(Ⅱコリント4:6)
「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(ガラテヤ5:25)

 

 ページのトップへ
  
2013年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ