2013年 5月5日 礼拝メッセージ 

「人を造り変える神の愛」
ヨハネによる福音書8章1節―8章11節

  人が幸せに生きることの基本は、平凡な表現をすれば「仲良く」生きることにあるのです。「仲良く」することは互いに楽しい、愉快である、嬉しいことです。「仲たがい」は、不愉快、悲しい、苦しいことになります。この他に病気とか、会社の経営の悪化で経済的に家計が苦しくなるとかという時に、家族であっても忍耐できないとか、助け合うことが出来ないとか、互いに責任をなすり合って諍(いさか)うことがあります。「仲良く」するにはそこに忍耐、寛容、親切、柔和、節制などがあって、問題を克服して、初めて「仲良く」過ごせることになります。実際に人間には欲があり、一面、この欲が人が生きるためのエネルギーでもあるのです。しかし、その生きる欲望を自己中心、自己の満足だけに用いることは、破滅に繋がることになるのです。人は、生きる上で幸せと満足を求める為に「理性」や「知識」を与えられています。しかし、この知識による科学の進歩が決して人を幸せにするのではありません。それは道具の延長であって生活を便利にするのです。しかし、刃物があれば料理して楽しめますが、人を殺すこともできます。原子力は豊かなエネルギーを与えると共に、それは消し去ることのできない放射能の恐怖で自然や人を破壊するのです。ヤコブ書にはその根本的な解決の鍵の言葉、教えが示されています。それは神様から与えられる「知恵」であるのです。「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。」(ヤコブ3:13−18)「知恵」は分別する力であり、「知識」を生かす力となるのです。「上から出た知恵」とは神様の知恵であり、その知恵こそ「神様の愛」であるのです。その愛こそ神様の霊、命としての力であり、「分別」の基礎となるのです。
「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」(ガラテヤ5:22)これに対して「肉」、即ち、「欲情」について「 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。」(5:19−21)と使徒パウロは指摘しています。そして「霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。」(:18)形式的になって、命を失った律法には真実の命、救い、解決はないというのです。
 ヨハネによる福音書の8章には姦通の現場(:3)で捕えられた一人の女の人の出来事が記されています。イエス様はエルサレムで、毎日朝早くから神殿の境内に行って教えておられ、多くの人々が集まっていたのです。そこへその女の人を律法学者やパリサイ派の人たちが連れて来て真ん中に立たせました。そこで彼らはイエス様に「このような女は、モーセの律法では『石で打ち殺せ』(申22:24)と言っています。あなたはどう考えますか。」(8:5)と言うのです。イエス様はかがみ込んで指で地面に何かを書き始められたのですが、彼らはしつこく問い続けるので、「あなた方の内、罪を犯したことがない人が、先ず、この女の人に石を投げつけなさい。」と言われ、なお黙して地面に字を書き続けられたのでした。これを聞いた人々は、年長者から一人、又、一人去っていくのでした。そして女の人だけが残ったのでした。イエス様は「女よ、あの人たちはどこにいるのか、誰もあなたを罪に定めなかったのか。」と言われるのでした。女が「誰もいません。」と言うと、イエス様は「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(:11)と言われるのでした。
 この出来事については、仕組まれたように思われるというのです。律法学者やパリサイ人は、神様の御心であるとして守られてきた律法への考えと、イエス様の教えが根本から違った考えであると断定していたのでした。律法学者やパリサイ人はモーセの律法を基本に、生活のきめ細かなことまで解釈して規定し、寸分も違わずに厳格に守ることを求めて、自らも実践していると自負していました。そこであまり律法を知らない庶民、即ち、律法をよく知らないことは罪ある人間として差別し、見下げ、軽蔑さえするのでした。しかし、この出来事をよく見てみると「一人の女」の人が姦淫の現場で捕えられてと書いているのですが、姦淫には男と女がいて発生するのです。しかし、女の人だけです。男が何故出てこないのでしょうか。まして旧約聖書にはすべての裁判には二人の証人が必要で、一人の証人では死刑は執行されてはならないとあります。(申17:6)いま正に、この女の人を死刑にして石で撃ち殺すべきであるというような意気込みであるのです。実際はこの人たちが石打ちの刑を実行するのでなく、これから証人を整えて確実に告訴することが出来るようにしようと理解することが出来ます。イエス様の「どのような人間でも神様の前では罪を告白して悔い改める時、愛なる神様は赦し、受け入れて下さる。」と常々言われていることへ、律法学者やパリサイ人は律法を犯せば「裁き」を受けて罰せられるべきであると厳格に主張していたのです。要するに彼らはイエス様を訴える口実を得るために「試み」ようとしているのです。(:6)裁かれる女の人は何らかの非難される「姦淫」の現場、それが男性と親しく立ち話をした程度のものかわからないのです。「姦淫」と言われるような関係の現場であれば当然、男も石打ちの刑に告訴されて当然です。しかし、ここには女の人しかいないのです。律法学者の厳格な断定で女の人を告訴しようとしているのです。権威を持って指導をしている有力者の前にこの女の人は恐れ、恐怖に身が縮みおののくばかりであったと思われます。イエス様が「この女の人は律法によって裁かれるべきである。」と言えば「ローマの支配下では死刑はユダヤ人が勝手に決済、執行は赦されていない。ローマの権威を無視している。」とイエス様を非難しようとしているのでした。又、「神様は愛である。赦してやろう。」と言えば、律法を犯している、神様を冒涜するものであるということで追い詰めようとする魂胆であったのです。イエス様はただ黙して、かがみ込んで地面に指で字を書かれたのでした。しかし、彼らがしつこく訴えるので「あなたたちの中で罪を犯したことのない者はこの女に石を投げつけなさい。」(:7)と言われるのでした。そうしたら年配の者から一人去り、二人去って行き、女の人が一人残ったのでした。イエス様は「あなたの罪を誰も裁かなかったのか」。女は「主よ、誰も」と言うと、主イエスは「「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(:11)と言われるのでした。
 この出来事の第一のメッセージは、罪を明確にすることは人が正しく生きる道であるが、人は道を踏み外し、罪を犯す弱さを持っている。使徒パウロは「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」(ロマ7:18)この切実な人間の真実の心情、弱さ、醜さをイエス様は人々に示されているのです。女の人を裁きながら、なおそこに人間の内面の偽善性を自覚させられたのです。
第二に、イエス様の限りない「神様の愛」が、赦され得ない罪の裁きの恐怖、恥ずかしめ、孤独の不安、死を予感する恐れから解放し、イエス様の言葉、愛の言葉、命の言葉に救われ回心したのでした。どのような人間をもイエス様は希望を与える鍵、神様の愛を持って助けられるのです。「罪に定めない。再び、罪を犯すな。」と言われ、再生、新しく生まれ変わらせて下さるのです。赦される道は閉ざされないのです。「あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」(エフェソ4:22−24)
第三に、この女の人の出来事を通してイエス様の愛に生きる力を示されるのです。神様の愛は忍耐であり、優しさであり、勇気でもあるのです。それを貫いている命と力は「知恵」であるのです。孤独と恐怖にある時、如何なる時、如何なるところでも、共にいて「助ける方」として道を開いて下さるのです。
「弁護者(助け主)、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ14:26,27) 
 この聖霊、助け主こそイエス様の神格である「愛」であるのです。
「 愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」(Tヨハネ4:18)赦された確信こそは神様の愛が命となって実ることになるのです。主にある平安がそこには与えられるのです。勝利と希望と喜びがその人の心に実るのです。


 

 ページのトップへ
  
2013年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ