2013年 5月12日 母の日
礼拝メッセージ
 

「母の愛と家の幸せ」
マタイによる福音書12章46―50節

 家庭の幸せは、父母の「細やかな愛情」によって成り立つということに尽きると言えます。子供は両親の愛情で育てられます。子供は親にとって可愛いものです。子供の幸せを願わない人はないと言えるでしょう。小さい子供には夢がある。どのような人になるのかという未来があります。親はその夢を見ながら子供のために大抵の苦労は厭わないものです。生まれた赤ちゃんに授乳する喜び、夜中に泣く子をあやす母の姿、眠気を我慢してむつきを変える、安らかに寝入る顔をみながら眠りに就く母の姿。保育園に初めて預けに来て、一時の別れに泣く子を見て、泣く母親の姿。小学校入学の時、愛くるしいわが子の成長に人生の幸せをしみじみ感じる親も多いのです。しかし、子供は親の気持ちを知る由もないのです。「親になって初めて知る親の恩」と言う言葉ほど真実なものはないと言えます。初めて子供が産まれる、親になった時にはじめてつくづくと母親の気持ちが分かるのです。そして「親孝行したい時分には親はなし」という諺があります。親孝行をしようと殊勝な気持ちになる時、親はいない、親がいる間に、元気な間に感謝をし、孝養を尽くせということです。
 「母の日」は教会の行事として祝われてきたのです。その歴史は古くはなく1908年、アメリカのウエスト・バージニアのメソジスト教会で、アンナ・ジャービスという日曜学校の先生がお母さんの記念会を持った時、子供たちに赤いカーネーションをあげたことに始まると言われています。その後、1914年にアメリカでは祝日になりました。今では世界各国で様々な形で母の日を祝うようになっています。日本でも「母の日」は社会に定着している大切な日であると言えます。
 親に「孝行」を尽くすことは、古来日本の家庭の基本としてきたことでした。儒教道徳の基本で、近世封建社会以後の生活規範として確立され、明治以後は天皇に対する「忠義」と並んで、「忠孝」が国民の道徳的な考え方の基礎となってきました。戦後、平和日本は人権主権を基本にした国となり、支配と所有を土台とした「忠孝」が国家や家族を築くという理解から一転し、一人一人の生きる権利、人権を社会の基盤にするようになりました。忠孝の下では、しばしば個人の自由や自立が失われ、犠牲の上に成り立つことになります。しかし、戦後、親子であっても同じ人間であるとの考え方が、権利主義と相まって自己中心的な家族となってしまい、「人が生きる徳性」を見失ってしまう結果にもなっています。この世の社会の法的基盤で生活できても、家庭の中では「孝行」は意味を失って来ています。孝行とは「親を大切にする」というだけでなく、親を扶養する、世話をする、みとることが含まれています。しかし、現代では、親を扶養することよりむしろ年金を子が当てにすることさえあるのです。少子化で親を大切にし、介護することも負担になり、疲れることさえあります。現代は家庭の喪失の時代とさえ言われるのです。
 このような時にこそ神様の言葉【聖書】に注目しなければなりません。「母の日」は祭日ではありませんが、今では日本でも定着した記念日です。「母の日」は聖書の「親孝行」を深く思い、記念する日として祝うようになったのです。聖書に「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。『父と母を敬いなさい。』これは約束を伴う最初の掟です。」(エフェソ6:1)という使徒パウロの言葉があります。親子は主従関係でもなく、所有関係でもないのです。しかし、「両親に従いなさい」と言っています。どんなことがあっても両親に従うのではないのです。「主に結ばれている者として」とあります。この言葉は口語訳では「主にあって両親に従いなさい。」とあります。「主に結ばれる」「主にあって」とは、「神様を信じる者」として「両親に従う」ということになります。
神様を信じることは、神様の御心、言葉、教えに生きることです。キリストによって真実の神様に導かれた人は、「兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ロマ12:1,2)という勧めに生きる人であるのです。両親は神様にわきまえる心、分別を信仰によって与えられているのです。ですから、その子は、両親が真実の愛なる神様のみ言葉に生きることを見習い従うのです。父は、主に代わって子供を御心に沿って訓育し、幸せにするのです。そこでは父の戒めは神の御心になります。母の教えは主の教えになるのです。だから「父と母を敬いなさい」と言うのです。ここで注意しなければならないことは、「従う」ことと「敬う」ことは同じであって、別であると考えることが出来ます。「従う」ことのできない親でも「敬いなさい」であることをしっかり理解したいものです。しばしば、異教社会である日本では、子供がイエス様を信じて親を敬愛しても、親は神様に対して無理解であったり、ある時には両親がいさかい、憎しみあい、アルコール依存症、ギャンブル依存症などであるとしたら、主を信じる子供は両親に「従い得ない」のですが、しかし両親を「敬う」のです。どのような親でも親は親、親としての「尊さ」は「祈り」に通じるのです。両親が真実の神に出会い、キリストによって示された神の愛と罪の救いを受けるように「祈る」ことこそが「孝行」であるのです。クリスチャンは祈る時「天の父なる神様」という言葉で始めるのです。存在と命の根源である創造主にして愛なる神は、人間の根本的な幸せの道をキリストによって回復して下さり、救いの道を示されました。イエスは言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)。この真理の道、キリストの言葉こそ人を真実に生かす「命」の「道」であるのです。幸せな両親、愛おしい子供のいる家庭、神様の愛に生きる家庭には神様の祝福があるのです。聖書ははっきり宣言します「『父と母を敬いなさい。』これは約束を伴う最初の掟です。『そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる』という約束です。」(エフェソ6:2,3)
 マタイによる福音書12章の中にイエス様が多くの人々に教えをしている時、家族、即ち、お母さん、兄弟たちが来たと書かれています。イエス様は長男であったのですから、50節には姉妹とありますので、おそらく母マリヤと弟妹が心配して来たのです。マルコによる福音書の3章にも同じ情景の記事がありますが、イエス様が様々な話をして祈り、病を癒やし、悪霊に取りつかれている人を正常にするという御業をされていると、「人々はベルゼブルに取りつかれている。」「悪霊の頭を追い出している」と言って、騒いでいるのを聞いて身内の者が心配してイエス様を取り押さえて家に連れ帰ろうとしていると記録しています。(マルコ3:20−21)母マリヤや弟妹たちが、イエス様を囲んでいる人垣から人々を分け入って入れないでいると、そばにいた人が気を利かしてイエス様に「御覧なさい。母上と御兄弟たちが外に立っておられます」
(マタイ12:47)と言ったのです。
「イエスはその人にお答えになった。『わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。』そして、弟子たちの方を指して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。』」
(マタイ13:48−50)
 おそらく母マリヤと弟妹たちは、イエス様のことをよく理解できず、悪魔呼ばわりして反対する人たちの非難や、攻撃を心配して止めさせようとしていたのでしょう。しかし、イエス様は、ここで驚くことを言われます。お母さんや弟妹たちの前で多くの人に宣言されるのです。「わたしの母、私の兄弟とは誰か?」そして、ご自分の周りにいつもいて従ってきた弟子達を指して「ここにわたしの母、私の兄弟がいる。」、「わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」と言われたのでした。(:48−50)
 肉身の繋がりで家族であっても、「天の父」、神様の御心に生きる人でなければ真実の家族ではないと言うのです。イエス様はヨハネの福音書19章で十字架に架けられて、今、去られようとする時、十字架のもとにいる母マリヤを見て、愛する弟子(ヨハネ)に言われたのです「これはあなたの母です。」と。母への思いやりを最後まで示されていたことが分かります。
 真実の家族とは、「天の父なる神様の御心」に生きることによって成る神様の家族であることを教えているのです。主イエスが教えられた「祈り」、即ち、神の家族の祈りとして知られている「主の祈り」、それは「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行なわれますように。」(マタイ6:9,10)と初めに告白するのです。
「主の御心」が行なわれるところにキリストの目指された神の国、一致が生まれるのです。「彼らが完全に一つに成るように」(ヨハネ17:23)この祈りは主イエス様を信じる信仰によって生まれる神の愛が心を支配する時、神様の愛によって人は一つにされる、成るのです。そこに神の家族が生まれることになります。
 クリスチャンは、先ず、神様の御心に生きる人であるのです。神の御心は神様の愛に生きることを意味します。「愛は全てを完全させる絆です。」(コロサイ3:14)愛は、幸せの鍵であるのです。カルヴインは「神の愛に最も似た愛は、母の愛である。」と言いました。どんなことがあっても「父と母を敬い」神の御心に共に生きる家族となりましょう。父母が主の御心に生きる人であってこそ、主にある幸せの実を結ぶことが出来るのです。そのために祈り、その為に主イエスの福音を伝えなければなりません。
 家庭に信仰の祈りが、喜びの賛美が、御国の栄光が幸せとなって実を結びますように。そこでこの言葉が生きるのです。

「わが子よ、(神からの)父の戒めを守れ。(神からの)母の教えをおろそかにするな。それをいつもあなたの心に結びつけ、首に巻きつけよ。それはあなたの歩みを導き、あなたが横たわるとき見守り、目覚めればあなたに話しかける。戒めは灯、教えは光。懲らしめや諭しは命の道。」
(箴言3:20−23)


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