2013年 5月19日 礼拝メッセージ 

「不思議な信仰の力」
使徒言行録2章1-13節

 ペンテコステとは、旧約聖書の伝承では神様が選民イスラエルの救いの計画を予表された事を記念する祭りで、イスラエル三大祭りの一つで、「過ぎ越しの祭り」、「仮庵の祭り」、そして「五旬節」ペンテコステです。それぞれの祭りは、神様がモーセをたててエジプトの寄留地での苦難と抑圧からイスラエルを奇跡によって解放されたことを感謝し、記念するもので、それは人類の解放と平和、救いの約束として予表された出来事でした。ペンテコステはギリシャ語のペンテーコンタ・ヘーメラスという言葉からきていて、50日という意味で「五旬節」と言われますが、教会では「ペンテコステの日」と言います。
エジプトの圧政と苦難の中で苦しむイスラエルが、指導者モーセによって不思議な10の奇跡によって解放されるのです。その最後の奇跡が行われる日、神様に反抗するエジプトを戒める裁きが告げられます。イスラエルには傷のない一歳の雄の小羊の血を家の入口の柱と鴨居に塗り、裁きが過ぎ越されるのを待つように言われ、助けられるのでした。この事を最後に長いエジプトの圧政から解放されるのです。この出エジプトの出来事を記念して祭りが行われるのでした。神に選ばれた人々は、この出来事を通して、神様の愛と憐れみによって人間の根源的な罪から救われるという約束による希望を自覚するのです。アブラハムを選び、神の民の証しとして祝福を約束されたことが、出エジプトの出来事によって確かにされたのでした。この「過ぎ越しの夜」の出来事、即ち裁きからの赦しと解放は、やがてイエス・キリストの十字架による贖いの小羊としての犠牲によって、イスラエルを通して全世界の人々への救いの道、平和の福音として示され、表わされるようになります。「この方(キリスト)こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(Tヨハネ2:2)
イスラエルは、苦難と圧政から解放されたのですが、約束の地、カナンへの道は遠く、その道は険しいものでした。試練を通して信仰が試されたのでした。その間、仮の庵で過ごした事を忘れず、その試練の中でも神に守られたことを記念して行われたのが「仮庵の祭り」でした。カナンに定着し、やがて農耕が始まると、収獲を終えた年の終わりに木で枠を組んでナツメヤシを仮に屋根として、7日の間飢えと渇きに苦しんだ荒野の日々を思い、「収穫を祝う」祭りとして行いました。それはキリストの教会、クリスチャンは地上では旅人であることを表す信仰の予表と考える事が出来ます。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」(ヘブル11:13)
 「五旬節」ペンテコステの日は、大麦の初穂を捧げる日から50日を意味して、収穫が終わる喜びを祝う祭りです。長い解放の苦難の旅が終わり、土に根差して食物を得る喜び、約束の地に根付いた感動を祝うのでした。そして、不安と試練の旅であった出エジプトから50日目に、モーセがシナイ山で神様の律法を受けたことこそ、「神の民」としての約束の確立であることを自覚する記念の祭りとなるのでした。「神の律法」、神の御心に生きることこそ、神に選ばれた「民族の証し」となったのでした。
 使徒言行録の1章にはイエス様が昇天を前に、弟子たちに「エルサレムで父なる神様の約束されたものを待ち望むように」と言われ、弟子たちは「国を建て直して下さるのはその時ですか」と尋ねるのでした。それはローマの支配から解放されることを意味していました。しかし、イエス様は、「父(神様)が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:7,8)と言われ、弟子たちの見ているうちに天に上げられ見えなくなったのでした。「聖霊が降る」、そうすると弟子たちは「力を受ける」そして「地の果てに至るまで証人になる」と言われるのです。弟子たちは、実際イエス様がどのようにしてローマの圧政から解放して、どのような神の国を実現されるのか分らないのです。「五旬節」の日にもイエス様を慕う弟子たち120人は、イエス様の言われるままに待ち望み、祈っていたのです。すると突然、激しい風が吹いてくる音がして家中に響き渡り、舌のような炎が人々にとどまり、弟子たちは聖霊によって知らない言語で語り出したのです。この大きな物音に驚いた諸国から祭りに来ている大勢の人々が集まって来ました。人々は自分の住んでいる地方の言葉で祈り、神様のなさった出来事を語っているのを聞いて、「なぜ彼らが我々の国の言葉で神の偉大さを語るのか」、「酒に酔っているのではないか」(:11、12,13)といぶかるのでした。弟子の年長者であるペテロが聖霊に満たされ、導きを受けて旧約聖書のヨエル書の「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは、奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。…主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。」(2:17−21)という預言の言葉を通し、イエス・キリストの十字架の出来事、復活の出来事こそは全人類の罪の贖い、罪からの解放の祝福であり、どのような人も神様の前に罪を告白して悔い改めるなら救われる。そして約束の聖霊を受けると告げ知らせたのです。その日、それを聞いて信じ洗礼を受けた人が3千人であったと記録しています。(2:41)
 ここで初めてイエス・キリストを信じ、受け入れた人たちの群れ、即ち、キリストの教会が誕生したのでした。かつてシナイ山でモーセが神の律法を受け、神の民としての自覚が与えられたように、イエス・キリストによって、全世界の人々に福音が告げ広められる道が開かれたのでした。約束の聖霊が注がれる事によって「証人となる力」、即ち、イエス・キリストが罪の贖いとなられ、復活された事による永遠の命を自覚的に経験したのでした。聖霊のバプテスマは能力、霊の命として魂の内に活ける神、その命であるキリストの愛を体験的に理解させて下さったのです。その人々をキリストにあって一つにし、ここにキリストの教会の出発があり、活ける教会の姿が表されました。
 聖霊の力こそキリストの教会の命であり、能力であるのです。ペンテコステの日に与えられた「聖霊の力」は信仰の命であり、その命こそキリストに表された神の愛であるのです。
 第一に、ペンテコステの聖霊の恵み「力」は、イエス・キリストが神の御子であることを理解する「力」です。聖霊によって与えられる「力」こそ、「信仰の命」であるのです。「聖霊が、あなた方にすべてのことを教え」(ヨハネ14:26)とイエスが言われたように、聖霊にバプタイズされた時、イエスがキリストである、救い主であることが自覚的に心の底まで定着するのです。その理解力が、命を、愛を、力を生み、神を経験させるのです。私達は神の霊を受けました。そして神の霊によって一切のことを、神の深みさえも見極めるのです。「それは、あなた方の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。(Tコリント2:5)この理解力が信仰の命となるのです。
 第二に、聖霊の「力」はキリストの命であり、キリストの命の生命力は神様の愛であるのです。キリストの愛を生きる人として聖霊のバプテスマは人に「命」を与えるのです。キリストの言葉は聖霊によって信じる人に生きるものとなるのです、その中心はキリストの表された神の愛です。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。」(Tヨハネ4:18)恐れのない愛とは勇気であり、忍耐、寛容であるのです。そこに信仰と平和の鍵があります。キリストは苦難の中にあっても最後まで神様の愛を貫かれました。聖霊に満たされるとは正にイエス・キリストの愛に満たされ、生かされることをいうのです。
 第三に、聖霊の力こそ、キリストに愛されている喜びを、そのキリストの愛の犠牲の恵みを分かち合う、宣べ伝える喜びの力を経験することです。主イエスが最後に言われた言葉、「全世界に出て行って福音を伝えよ」(マルコ16:15)を実践する時に、聖霊の力が喜びとなって人々に主イエス様の恵み、神の愛を、十字架の救いの愛を伝えることを無上の喜びとする人となるのです。
聖霊のバプテスマを受けた人は聖霊に満たされ続ける人でなければなりません。聖霊の力、聖霊の愛、聖霊の命に生きる時に、聖霊の使命を伝える人として生きるのです。
第四に、聖霊の力はキリストの御体なる教会を建て上げる力です。聖霊の臨在のあるところに神は共に居て、その栄光を表して下さる教会、交わりとして下さいます。神の希望と喜び、平和と恵みが人を生かし、育てる教会として育ち成長するのです。
「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」(エフェソ1:17−19)

 

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