2013年 月日 礼拝メッセージ 

「活けるキリストの救い」
使徒言行録3章1-10節

 教会でクリスチャンが「証し」をする時、「わたしは学生の時に救われました」というような表現をします。この「救われた」という言葉は、「火事から救われた」、「風水害から救われた」、「事故から救われた」といったような危機的な状況から助けられることを意味するものです。全能の神様に出会う時、奇跡的な経験をすることがあります。聖書には奇跡の出来事が多く記録されています。クリスチャンは身体の癒やし、生活の奇跡的な困窮の解決などの経験をすることがあります。主イエスは「神を信じなさい。…言っておく、祈り求める者はすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」(マルコ10:22−24)と言われています。奇跡は自然の仕組みを越えた出来事であるのです。しかし、考えてみれば地球には水と空気があって太陽の光を受けて命が育まれています。そのことは何故そのようになったのか、なっているのかは誰にも説明できません。人間の知性と理性を越えているのです。空気と水、そして、人は土地に根差して生きているのです。生かされていると言えます。「神は愛である。」(Tヨハネ4:8)と聖書は記しています。何故、神様は森羅万象を創造されたのでしょうか。詩編には「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。…その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。」(詩篇19:2−5)と告白されています。創造は「神様の栄光を表す」のです。「栄光」素晴らしい、偉大さ、尊厳を表しているのです。見る者に与える自然の創造の美しさ、調和は「言葉」、即ち、存在の輝きが人を感動させ、礼拝させるのです。その「言葉」、御心は愛であるのです。言葉を越えた感動と素晴らしさ、即ち、ワンダフルWonderful、それは見事であり、驚くべき、不思議、人間の理性や知性を越えた神様の叡智の結集を物語るのです。創世記の創造の順序は、全ての自然を創造してその最後に「人間」を「神様に似せて創造された。」(創1:27)とあります。その根本的な相似は「愛」なのです。「神様が愛である。」ように「人も愛に生きる存在」です。自然の創造は神様の愛の証しであるのです。言換えれば、人は、命と存在の根源としての神様に“愛されて生きている”と言えます。空気や水に支えられ生かされているというその英知こそ、神様の配慮であり、愛であることが解ります。
 自然を越える奇跡があるとすれば、その奇跡こそ「神が愛である」というメッセージであることを悟らなければなりません。そのことによって、人間の有限性と理性や知性の限界を知ることになるのです。ですから神様は苦しんでいる人や病んでいる人が解決、救いを求める時、誰でもどこででも「祈る」人の祈りを聴いて下さるのです。或る人達は、先ず、神様がはっきり解り、福音を信じて、初めて祈りによる奇跡を祈るべきだと主張します。しかし、聖書読む限りイエス様のなさっている癒しの業は語ることなく、癒しの業を行っておられるのです。ヨハネ9章の生まれながらの盲人の癒しは、弟子たちの質問から始まります。当時ユダヤの伝承では、障害者は何かの罪悪の結果としての裁きの表れとして理解されていたのです。イエス様は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ9:3)と言われています。現実のその不幸から解放する、救うこと、それだけがまず神様の愛の思いであるのです。そこでイエス様は泥を唾で練り、盲目の人の目に塗り付け、シロアムの池に行って洗いなさいと言われるのです。池といっても何段も狭い階段を下りていく薄暗い小さな泉であったのです。盲目の人は言われるように池の水で泥を洗い落とすと視力を取り戻したのです。なんという感動でしょう。すると安息日に治療を禁じている律法をたてに、ファリサイ派の人たちがこの人を責め立てるようになるのです。律法を破る人は神からの人ではないなどと批判するのですが、しかし、この癒された人は、「わたしはあの方が罪人か、わたしには分かりません。ただ一つ知っていることは、目の見えなかったわたしが今見えると言うことです。」(:25)「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」(:31、32)と言うのです。そしてイエス様に「主よ、信じます」と告白するのです。
 これらの事は、神様はどんな人にも救いが必要な人には手を差し伸べられるということを物語っているのです。そのことを通してイエス様を救い主として受け入れるのです。言換えると「信じれば癒やされる」とは言われていないのです。信じる、信じないは関係なく、不幸から解放されたいと願っている人には無条件で手を差し伸べられるのです。そこに神様の愛があります。その神様の愛の力と恵みに心が目覚める時、神様への無限の信頼と畏敬が持てるようになるのです。この目覚めによって、神様から離れて生きる空しさ、神の愛を知らない罪深さを自覚するようになり、悔い改めるようになるのです。イエス様が十字架に架かり自らを犠牲にして人々の為に死なれたことが分かり、人間が真の神から離れ、神を忘れ、否定することの罪深さを自覚できるようにされるのです。
 5旬節の聖霊降臨の後、3千人が洗礼を受けて、心を一つにして祈り、家ごとに集まりパンを裂き、喜びと真心を持って食事をし神を賛美していました。次々と人々が加えられていった。そこでも不思議な業が行なわれ、財産や持ち物を共有にして必要に応じて分け合っていたのでした。弟子たちにとって聖霊を受けるという出来事は、イエス・キリストの十字架の犠牲を通して神が「人を愛する神の愛」を示されたことが心に焼きつく経験でした。そこで神様を信じることは、神様の愛に生きることであることを知ったのです。純粋にキリストを信じ、神の愛に生きる時に、人々は完全に一つにされたのです。人が一つになれることは奇跡であると言えます。先ず、そこでは他の人と共に生きるために所有物、財産を共有するのでした。愛する者のために自らのすべてを差し出すことで、完全にキリストの心を心とすることが実現したのです。キリストの最後の祈り「彼らが完全に一つになるように」(ヨハネ17:23)が実現しているのです。そこには一致と平和が生まれるのです。言換えれば、神が共に居て下さるという神の国が現実となっているのです。これが聖霊降臨によって生まれた教会であったのです。
 ペンテコステ以前には不安と自信喪失、恐怖と自己保身の狭間で揺れ動いていた年長の弟子であるペトロは、揺るぎない信仰が与えられ、イエス・キリストこそ救い主であることを確信し、如何なる迫害、如何なる苦しみにも動揺することなく福音を証ししたのです。
 使徒言行録3章では神殿に祈りに上って行く記事があります。ユダヤの習慣で1日に3回、祈りの時間が決められていて、朝9時、正午12時、午後3時は祈りの時として、ペテロとヨハネも神殿に上って行きました。「美しい門」と呼ばれている入口の門に、毎日生まれながら足の不自由な男の人が運ばれて、宮に詣でる人に施しを乞うていました。ユダヤ教では祈りと共に施しは特に敬虔な行為と言われているのです。生まれながら足が不自由ということは不治を意味し、人の情けにすがるしか生きるすべがないのです。同情を得るための哀願と、無情な人に当てが外れ、期待と失望という流れに、むなしい気持でその日もすわっていたのでした。その時、このうつろな瞳を見たペテロは、「わたしたちを見なさい」と言うのでした。この人は何かもらえると期待し、二人の顔を見上げると、「私には金銀はない」。何と薄情なもの言いなのか。「しかし、持っているものを上げよう」と言うのです。「イエス・キリストの名によって立ちあがり歩きなさい」と言うと、右手をとって彼を立ちあがらせたのです。何と、立てない足に力が入り、立ちあがったのです。足やくるぶしに力が入り歩き始め、踊り出したのです。そしてペテロやヨハネと共に神を賛美しながら境内にはっていくのでした。
 ここで第一に、人の同情による金銭的な施しは、人を卑屈にさせ、情けを求める思いと卑下との間で希望のない日々しか持つことができませんでした。しかし、イエスの名による解決はこの人に人間の尊厳を取り戻した喜びを与えたのです。イエス様の救いは人間の回復であるのです。
 第二に、「イエスの名で」というのは、イエス様そのお方が共にいて、働いて下さることこそ、祈りの恵みの業であることを示します。「名」は人格を表し、その方に信頼を置くべきであることに注意が向けられるのです。この癒された人が、イエスが力ある救い主であるという噂を聞いていたであろうことは、極めて確かであるのです。しかし、現実には遠い存在であり、祈るすべすら知りませんでした。使徒たちの真剣な祈りは、「イエスの名によって立ちなさい」という命令でした。そこにはあらゆるものを支配し、動かす権威と力がみなぎっているのです。
第三に、この人は、不治と思われていた障害を癒やされて、感謝と賛美をもって礼拝するべき境内に使徒と共に入って行ったのです。神殿の規律では障害者は傷あるものとして入場を禁じられていたのです。言換えれば、神様との自由な交わりさえ赦されないのでした。しかし、彼ははばかることなく聖所に入ることが出来るようになったのです。これは赦されざる罪をも赦すキリストの十字架の象徴として、その救いによって解放されていることを指し示す希望となっているのです。
人々はこの出来事を知って集まって来たのでした。ペトロは「ソロモンの回廊」に集まった人達に、改めて自分たちの力ではなく、「イエスの御名を信じる信仰による」恵みの業であることを説くのです。そして罪を悔い改め、イエスを受け入れるように語るのです。この話を聞いて信じた男が5千人であったというのです。(使徒4:4)
生ける真の神様は、必要なこと、苦しんでいることからの解放、救いを通して神の福音を示されているのです。されど、一方では、次々と襲いかかる病と闘いながら、その病の中でその苦しみを通して意味を教え、希望を与え、力強く証しできる事もあるのです。三浦綾子さんは青春時代から脊椎カリエスで長い闘病生活を強いられました。それが奇跡的に癒された後も、また様々な病気になり、人の目から見れば辛く悲しいようですが、病をも神からの賜物として受け入れ、彼女に与えられた文才によってイエス様と共に生きる喜び、罪赦されて神と共に歩む生涯の素晴らしさを書き上げ、夫である光世さんに支えられ、実に多くの人々に生きる喜びと希望を与えたのです。74歳の人生を終えるまで人々の救いと幸せをキリストにあって語り続けました。今は天国にありながらも、彼女は文学を通してキリストの救い、罪の赦しによる永遠の命の希望を証しし続けているのです。今も多くの人々が著作によりキリストに出会っているのです。人が、根本的に人間として創造の目的である、神の栄光を表し、神の喜びを喜びとして生きる永遠の命の救いこそは、何にも代えがたいものであるのです。ペンテコステに誕生した初代教会は、どのような時代にも帰るべき霊的故郷であることを確信しなければなりません。

 

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