2013年 6月2日 礼拝メッセージ 

「幸せを築く恵みの鍵」
詩編19篇1−11節

 今、テレビの大河ドラマでは山本八重が、大きな話題になっています。八重は兄の覚馬を世話するために京都に来て、新島襄と出会い結婚することになります。新島襄は近代日本の黎明期の教育者として、又、日本のキリスト教に大きな足跡を残したことで知られています。同志社大学神学部の栄光館の入口には、創世記一章一節「初めに、神は天地を創造された。」(ヘブル語で)と刻まれたパネルが掲げられています。幕末、黒船来航で国が大きな変動を遂げようとしている時、襄は元服後、間もなく友人からアメリカの地図書をもらい、世界に興味を抱くようになります。幕府の軍艦操練所で洋学を学び、アメリカの宣教師に出会ってアメリカに密航(出国禁止のため)することを決意し、函館に渡り色々な人の助けでアメリカの商船ベルリン号で出国するのです。襄の回心には諸説がありますが、船長に漢訳の聖書をもらい、創世記1章1節の「神様が天地を創造された」という言葉によって、すべての存在は創造主なる神様によるものであり、神様は「天の父」として崇められるべき方であることに目覚めるのです。やがて米国にたどりつき、回心の確信を与えられ、アンドヴァ―神学校付属教会で受洗するのでした。
 人がクリスチャンになる時、聖書の言葉が心に示されて真実の神様を認識するようになります。「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)この言葉によってどれほど多くの人々が真実の神様を知ることになったか計り知れません。さげすまれ、自信を失い、孤独に心を閉ざし、失望の崖の上で人生を彷徨う時、神に「愛されている自分」を見出し、希望と再生の道を歩みだした人は多いのです。「初めに、神は天地を創造された。」この一言が、心の目を開かせ、人を救いに導くのです。 人は、生まれ育ってきた環境の中で長年の習俗や宗教感情が心の中に組み込まれ日々の生活をおくるものです。現在、日本では日曜日には仕事を休みます。多くの職場や、学校も休みます。ほとんどの人が「何故、日曜日を休むのか」というようなことは問わないし、考えることもありません。何故、日曜日が休みなのかは、聖書の基本の教えによるものです。出エジプト記にモーセを通して与えられた「十の戒め」(出20:1−17)が記されています。その第二の戒めに「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」(:8−10)とあります。仕事は生ていく上での土台ですから心を尽くして精を出すことになります。しかし、「忙しい」ことは“心”を亡ぼすというように、本来の人間性を失うことを意味します。「休む」、「聖別する」とは仕事から解放され、体を休ませ、心を新たにすることを意味するのです。
「人はパンだけで生きるのではなく、人は主(神)の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申8:3、マタイ4:4)人は身体を支える「パン」だけで生きるのではないのです。パンは食物の総称として表されています。「食べ物」だけで生きているのでなく、「神の口から出る言葉」をもって人の霊性を生き返らせ、本来、人が神様に創造された存在の自覚を目覚めさせるのです。「神様に愛されている自分」「神様に生かされている自分」を発見し、このことから「命は神から委ねられているという尊さ」、「命は大切し、守らなければならない」、言換えれば、「人は、神様に愛されている。だからこそ、愛し合って生きる」ことの真実の価値を悟ることができるのです。
日曜日は第一に、神様の創造の初めを記念し、命と存在の根源である創造主なる神様に感謝し、賛美し、礼拝する日です。そして、「神に愛されている自分」を確認し、「神の言葉」即ち、「神様の愛」に生きる尊さを感謝し、守ることを祈る時なのです。
第二に、モーセの十戒に、神はすべての創造の後、7日目を「安息日」として祝福され、休むことを命じられたと記しています。
イエス様は心を神に向けず、形式的に律法を守ることの偽善性を糾弾され、人間の真の実体である内面に目を向けさせられました。どのような人も、心の迷いがあり、罪を犯さずには生きられないことを示されました。使徒パウロは、「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ロマ3:10)と、詩編14:1−3を参照して指摘しています。創造主なる真実の神様を知らない、信じない、信頼しないことこそ、すべての悪であり、罪の根源であるというのです。言換えれば、神様に愛されていることを知らない、悟らないことこそが不幸と争い、憎しみ、不和の根源というのです。「神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Tヨハネ4:8−10)イエス、即ち、キリスト《救い主》が「わたしたちが人間として生きる」ようになるため、罪の身代わりとなって十字架に死なれたのでした。「福音」、「神の愛」を信じて「神様の愛を自覚しない、信じない」罪を悔い改めるなら、全ての人に神様の平和と救いの道が開かれているということを、ユダヤの人たちは拒絶して、イエス様を処刑するのです。神を殺すというこの出来事においても、イエス様は「彼らのなすところ知らざれば、彼らを赦したまえ」と祈って最後を迎えられるのです。このイエス様があらわされた「神の愛」を受け入れ、信じ、生きる時に神様が下さる平和と幸せ、救いを経験するのです。神様は、変わる事のない永遠の命、不変の平安と喜びを与え、神様に愛されている自分を生きる人にして下さいます。イエス様は、約束の御言葉通りに復活され、永遠の命への希望を与えて下さるのです。
 イエス様の使命と生涯、弟子達の活動が始まる時代を新約聖書は記録しています。新約の恵みの時代になり、イエス様の十字架と復活の出来事を通して、神の愛と永遠の命の道が与えられたことを記念して、安息日は日曜日に定められることになるのです。
 日本には歴史的にも文化的にも日曜日を守る習慣はありませんでした。明治維新による文明開化で西洋の文化を取り入れ、キリシタン禁令が外圧によって解禁され、クリスチャンにとっての信仰の基本、信仰の土台、生活の基礎となる「日曜日は仕事を休む」ということになっていきました。当時の政府としては西洋の習慣としての認識だけのものであったとしても、無言の神様の愛のメッセージであったと考えられるのです。
「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。…その響は全地に、その言葉は世界の果てに向かう。」(詩19:1,5)この自然の造形は筆舌を越えた創造です。太陽とそのエネルギー、命をはぐくむ不思議、月星の美しさ、川や水の命を育てる神秘、空から降る雨の恵み、古来、人は山や川、滝や月や太陽に精霊を感じて神としてきました。川や雨、土が命を育てるのを見て、人を越える不思議さを「お陰」として礼拝するようになるのです。終いには馬頭観音、牛や狐を神格化する習俗にもなるのです。そこで木を削り、金具で像を作り拝むことに慣れ親しんできました。少し冷静に考えるなら、預言者イザヤ(旧約聖書)の言葉のごとく「木は薪になるもの。人はその一部を取って体を温め、一部を燃やしてパンを焼き、その木で神を造ってそれにひれ伏し、木像に仕立ててそれを拝むのか。また、木材の半分を燃やして火にし、肉を食べようとしてその半分の上であぶり、食べ飽きて身が温まると『ああ、温かい、炎が見える』などと言う。 残りの木で神を、自分のための偶像を造り、ひれ伏して拝み、祈って言う。『お救いください、あなたはわたしの神』と。彼らは悟ることもなく、理解することもない。目はふさがれていて見えず、心もふさがれていて、目覚めることはない。」(イザヤ44:15−18)この言葉は約二千七百年前に語られた聖書の言葉です。
このように日本では世界に誇る高度な技術、高度な医療、高度な教育、高度な福祉がありながら、心の迷いから、正に、迷信、俗信と言われる街角の拝み屋さん宗教に人々が迷わされる現象が尽きないのです。
 真実の神様は、創造主であり、命と存在の根源である、創造に責任を持たれる愛なる神であるのです。そして真実の神は聖なる神であり、人を神に似せて造られ、神様の聖、即ち、神様の御心、神様の愛を持って生きる道をイエス・キリストを通して示されるのです。「主の律法、教えは完全で、魂を生き返らせ、主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。…心に喜びを与える。…目に光を与える。」(詩19:8,9)
 最後に、先ず、神様に愛されている自分を自覚しましょう。生活と人生が変わる。美しい自然を見て神様の栄光を褒め称え、賛美しましょう。生かされている喜びを感謝ししましょう。赦されて再生できる希望を喜ぼう。死を克服する永遠の命の平安を喜ぼう。
 わたしたちは何時でも何処でも「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ5:2−5)と告白できるのです。感謝

 

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