2013年 6月16日 礼拝メッセージ 

「人を生かすささやかな真心」
ヨハネによる福音書6章1-15節

 真心とは嘘いつわりのない、飾りのない心である。人間が共に生きるのに最も大切なこころの絆は「真心」ではないかと思われます。真心が信頼を深め、信頼は愛情の裏付けなり、助け合う絆となります。真心のない愛、真心のない友情、真心のない家族に安らぎや穏やかな日々は望めないでしょう。そして、真心は量の問題でなく、質の問題であるのです。
 平穏な日常の営みの中では、お互いに関係の善し悪しは見えてこないものです。しかし、様々な課題が起こり、金銭問題や、約束が守れない時にはトラブルとなって人間性が試されることになります。試練とは試し,練ると書くように困難によって人は人間性を成長させる機会となるのです。
 今日の聖書のお言葉は、ヨハネによる福音書の6章の有名な五つのパンと二匹の魚で5千人を養われた奇跡の箇所です。イエス様が行かれる所には、人々が集まり、そのお話を聴きました。又、困っている人や病人のために祈って下さるのです。祈っていただいた人たちは、癒やされ平安になり変えられていくのです。イエス様が移動されると、皆はぞろぞろと後を追いかけて行くのです。イエス様がガリラヤ湖を船で向こう岸に渡られると、イエス様を慕う人々はあとを追って、おそらく岸伝いに行き、イエス様達より先に着いたというのです。(マルコ6:33)その数、何とおおよそ五千人であると記録されているのです。イエス様は人々から逃げるようなことをしないで「神の国」の教えを語り、病める人々をいやされるのでした。
ヨハネの福音書にはこのことは書いていないのですが、他の福音書にはその情景が記されています。実は、4福音書の内、マタイ、マルコ、ルカは共観福音書といって資料の構成や時期などでイエス様の出来事の共通した記事が多く記録されています。ヨハネ福音書は後代に描かれて、イエス様の多くの教えを霊的に記録しています。ヨハネ福音書で共通しているのは、イエス様の復活の出来事はもちろんですが、その他はこの5つのパンで五千人を養った奇跡物語だけなのです。そこには描写のずれや、違いが少しあります。
 イエス様たちは人々から逃れて町から遠い人里離れたところに行かれたのですが、人々は追い掛けてきたのです。今では5つのパンの教会がカペナウムに近いガリラヤ湖畔にあります。そのなだらかな道を登ると、山の上に8つの祝福の教会が建てられているのです。おそらく有名な山上の説教が、この5つのパンの教会の湖畔で語られたのでしょう。イエス様は多くの人を厭(いと)うことなく、優しく熱心に御心を語られて、病の人々の願いに答えて祈り、癒されたのです。そうこうするうちに、夕暮れになり、弟子たちは心配し始めるのです。弟子たちはイエス様に「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」(マルコ6:35,36)と言います。マルコでは「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」となっていますが、ヨハネではフィリポを名指しされています。それはフィリポを試すためであったとあります。「この人たちにパンを食べさせるにはどこで買えばいいのか」。フィリポはベッサイダの出身であり(ヨハネ1:44)今、いるところの近くであったこともあって、イエス様はフィリポに言われたようです。おそらく弟子集団の手持ち200デナリオン(1デナリオンは当時の労働手当の一日分の給料)では、五千人余りの人々の食べ物を買うには到底足りませんというのです。イエス様はフィリポを試しておられ、御自分では何をされるのかを知った上で質問されているのです。(:6)フィリポは「無理です」というのです。フィリポは理性的で何かにつけてイエス様を批判的に見ているのです。ヨハネ4章では、弟子たちがイエス様に食べ物を用意して差し出した時に、「わたしには食べ物がある…わたしの食べ物とはわたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」(4:31~)と言われています。その意味をフィリポは知らないはずがない。又、14章では有名な「わたしは道であり、真理であり、命である…」という言葉の後で「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」と言われると、フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うのです。 イエスは「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。」と言われるのです。フィリポは懐疑的で素直な気持ちで従っていなかったのです。
 子供がおそらく母親に作ってもらったパン5つと二匹の魚を弁当にもってきて来ていました。それをアンデレが受け取り、イエス様が何かをして下さることと思い差し出したのです。何かをして下さるという期待感がアンデレにはありながら、心では「どうにもならないかなー」という思いであったと言えます。しかし、子供の気持ちとしては、お母さんの作ってくれた弁当を誰かにあげることは無理なことです。しかし、イエス様の近くでお話を聴き、お祈りされると癒される不思議とイエス様の優しさと、困っている人々への温かい思いやりに、持っている5つのパンと2匹の魚をさし出したのです。そのパンは大麦のパンと書いてあります。(:9)パンは普通、小麦で作るのです。イスラエルでは大麦でパンを作るのは貧しい家庭であると言われているのです。この子は決して裕福な家の子ではないけれども、イエス様に会いに行く子のために、おそらく母親が心をこめて作ってくれたものです。想像すればその子はお母さんが病気で行けないのでイエス様にお祈りを願ってきたのかも知れません。ともあれ飾りのない、偽りのない「真心」を持ってイエス様が何をなさるのかを固唾(かたず)をのんで見守ったのです。
 イエス様は「感謝の祈りをして」座っている人々にパンを裂き、分け与えはじめ、魚も分け与えられたのです。人々がほしいだけ、満腹するまで与えられました。そして「少しも無駄にならないように残ったパンくずを集めなさい」と言われるのでした。 人々はこの奇跡を目のあたりにしてこの方こそは神様が遣わされた神の人、預言者で油注がれた王であると言い始め、イエス様を連れて行こうとするのです。イエス様は一人山に退かれたというところでこの記事は終わります。この出来事からわたしたちに多くの教訓を教えているのです。
 その第一に、フィリポとアンデレの信仰姿勢です。フィリポは現実に人間が出来る、出来ないの常識の範囲でイエス様を理解するのでした。イエス様がなさることに懐疑的であるのです。このようなパンの奇跡を体験しながらも、「人にはできないが、神には何でもできる」(マタイ19:26)という真理が理解できないのです。確かに奇跡は多くの場合、神様の愛のメッセージです。パンの奇跡は困っている人を助けられるのですが、ある解釈では、子供がパンをイエス様に差し出すその素直さ、真心、純真に打たれて、人々は皆自分がもってきているパンを分ち合って、皆が満腹したという道徳的訓話の解釈をする人もあります。それは合理的な考えで奇跡はないことを前提にしているからです。できないことはないという全能の神を制限していることになります。イエス様はフィリポに「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は父を見たのだ。」(14:9)言換えれば、イエス様の業を通して超自然的、「何でも不可能なことはない」創造主、父なる神を表しているわたしであると言われているのです。イエス様は、信じて初めて理解出来る神です。神様は「理解して信じるのでなく」「信じて初めて理解出来る」のです。やがてフィリポは聖霊を受け徹底的に変えられます。アンデレは子供の持っているパンを、心に不安を持ちながらもイエス様なら何かしてくださるのではないかと差し出すのです。イエス様ならと、小さな信仰があるのです。わたしたちは迷いやすく、疑いやすいものです。イエス様を信じていながらも陥りがちなことです。でも、どこかにイエス様ならなんとかして下さるという小さな、小さな芥子種のような小さい信仰の種が行動となる時、イエス様は神様の御力を表して下さることを学ぶことが出来るのです。素直に信じる信仰、そこに5つのパンと2匹の魚の奇跡があるのです。イエスはトマスに言われました「信じないものでなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)
 第二に、5つのパンと2匹の魚は、貧しい一人の子供の弁当でした。先述したように、大麦のパンを食べる人は貧しい家の人たちでした。その貧しい弁当を差し出すのです。それは小さい、とるに足りないものでした。しかし、イエス様の御手の内に神様の愛と恵みとが溢れるとき、小さな5つのパンは5千人以上の人々を満足させるのでした。かつて19世紀に用いられたドナルド・ムーディーは、貧しい靴屋のセールスマンでした。少年時代から日曜学校に学び、日曜学校の先生の教えと祈りで伝道者として立ち上がります。彼は学歴はなく、説教は名説教と言われながらも彼の話す英語さえ笑う人たちもいました。しかし、多くの人々が回心し、クリスチャンになり、英国では高名なモルガン牧師と共に伝道に用いられ、ト―レーという学者と共に聖書学院を設立したのでした。大正昭和に日本でホーリネスリバイバルを指導した中田重治はムーディーに学んだのでした。神様は私たちの小さな捧げもの、小さな奉仕、小さな善意、真心のこもった思いを大きく、大きく用いて下さるのです。小さな芥子種の信仰こそ最も尊いものであるのです。
 第三に、イエス様は差し出された5つのパンと2匹の魚を受け取ってから「感謝の祈り」をされたのです。そこ与えられた小さなものも主の御手の内に「感謝」がささげられると、その小さなものは御手の内から限りない祝福となって増えるのでした。「少しも無駄にならないように…集めよ」と言われます。ここで「無駄にする」はアポルーミ(άπολλύμι)が使われており、本来の意味は「滅ぼす、失う、消え去る、殺す」などの意味がある言葉です。「一つも滅びないように」という意味では、滅んではならない命のパンであるということになるのです。ここでは、イエス様の御手の内にある命のパンを分け与えんとすることをいっていると見ることが出来るのです。その後、22節以降では弟子達のパンについての会話が繰り広げられ、イエス様は「わたしの父が天からのまことのパンを与えになる。神のパンは、天から下って来て世に命を与えるものである。」(:32,33)と言い、弟子たちがそれを下さいと言うと「わたしが命のパンである」と言われるのでした。このイエス様の命のパンこそ、「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(:39,40)5つのパンの御心を、はっきりと明言されているのです。誰ひとり滅びることなく永遠の命に繋がるパン、命のパンこそイエス様ご自身であることを示されているのです。
 イエス様の「感謝の祈り」こそ、人の思いを越えた甦りの命に導く神様の不思議、奇跡を通して救いに入れられる、喜びの「感謝の祈り」であるのです。この「感謝」をユーカリステオー(εύχριστέω)と言います。今日、聖餐式を英語でユーカリスト(Eucharist)と言うのです。パンと葡萄酒を礼拝で頂きながら、人の英知を越えた神様の叡智による死からの復活、永遠の命を繰り返し確かめるのです。永遠の命のパンとしてイエス様は明言されます「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(:51)イエス様のパン、聖書の御言葉に養われ、御言葉に従い、御言葉に生かされ、イエス様を証し、その恵みと愛、十字架の言葉を伝えようではありませんか。ささやかな真心で捧げられた小さな5つのパンで5千人からの人々が喜びと感激に満たされた喜びを、日々の生活に生かそうではありませんか。

 

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