2013年 6月23日 礼拝メッセージ 

「知られざる幸せの訪れ」
ヨハネによる福音書2章1-11節

 喜びの時に幸せを共にしようと食事を予定しているのに、もてなす料理が準備されていないことがあったら一大事です。それに気づき慌てても、どうしようもない時の困惑は大変なものです。ヨハネの福音書2章には、カナの婚宴の出来事が記されています。カナの町はイエス様がおられたナザレから北に15キロ位の所にある小さな町です。このカナには母マリヤの親戚があり、婚礼があってマリヤは婚礼の裏方のように世話をする事を引き受けていたようです。イエス様は弟子達と一緒に招かれていたのでした。イスラエルの当時の風習では結婚式は親族一同、親しい身近な人も招いて盛大に祝うのでした。それも一日や二日でなく、一週間は続くのが習わしであったのです。当時、庶民は貧しく、ぶどう酒などは日常、家で飲むことがなかったようで、結婚式には花婿の家族が盛大に振る舞い、この時に親族は絆を深め、友情を固め、近隣の人々はお互いの気持ちを強くするのでした。この繋がりは経済的に、また互いに敵から身を守る防衛共同体のように重要であったのです。
 宴会はおそらく二、三日目で宴もたけなわ、興にのっている時に母マリヤが「お酒がなくなりました」と、台所の方からイエス様に告げに来たのです。裏方を引き受けて、ぶどう酒は充分用意したはずであるのに、足りなくなってしまい、困惑してイエス様に告げました。イエス様は「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」という不思議な言葉を語られるのです。この会話はマリヤの心情を思い浮かべなければ理解できないといえます。母マリヤは、イエス様が神の子であることを知っている唯一の人であったのです。御使いから「聖霊によって神の子を宿す。神には何一つできないことはない。」(ルカ1:35)と告げられると、マリヤは「お言葉通りになるように」と神様のお言葉を受け入れ、事実そのようになるのです。マリヤは沈黙の内にも、神の子であるイエス様が、何でもできるということは確信していたといえます。その後、イエス様は、「人間には出来ることではないが、神には何でもできる。」(マタイ19:26、18:27、マルコ10:27)と言われているのです。マリヤはイエス様が、この困った事態から助けて下さるに違いないと初めて願ったのです。秘めていた心の信仰の扉を開いたといえます。イエス様は「その時は来ていない」と理解できない事を言われるのですが、それは、ご自分の歩む苦難の道、十字架の道の時がまだ来ていないということであるのですが、それへの備え、また教えの道筋、公生涯がまさに始まる時でした。
 マリヤはイエス様を信頼しているのです。召使いに「この人が何かいいつけたら、その通りにして下さい。」と言うのでした。台所に祭儀に基づいて清めをする水甕が6つあったのです。それは3メトレテスと書いてありますが、1メトレテスが39リッターです。口語訳には4,5斗とありますが、この計算では8斗ちょっとになるでしょうか。何にしてもそれが6つですから48斗ぐらいということになります。480升瓶以上の量になるのです。その水甕に水を溢れるまで入れさせたのです。そしてくんで宴席の世話役に持っていくように言われるのでした。宴席ではぶどう酒はまだかという声が飛び交っているのですが、おろおろする宴会の世話役(司会者)に召使いが、今、くんできた新しい酒を持ってきました。一口、世話役が舐めると何とそのうまさ、早速、花婿に言うのです。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」(ヨハネ2:10)この酒がどこから来たのか僕たちは知っていました。
イエス様は「最初のしるし」をカナで行われたのでした。神の御子の栄光を表し、弟子たちはイエス様を神の子と信じたのでした。(ヨハネ2:11)イエス様の公の生涯はこのカナの婚宴のしるしから始まったと言われます。神の国を教え、その御心を解き明かし、罪を教え、不幸の根源である神様への反抗の愚かさを示されるのでした。そして真実の神様は愛と恵みであり、愛し続け、いとおしみ、待ち続ける方であることを示されるのでした。
 第一に、イエス様を通して神様は共にいて、如何なる時も道を開いて下さることを教えているのです。カナの婚宴の「しるし」は、様々な見解があります。どうして「お酒」が足りないからといってこのような奇跡をするのか。意味がないという人もあるぐらいです。しかし、古来、教会では結婚式の式辞に「キリストはガリラヤのカナにおいて結婚式に連なり、最初の奇跡を行いてこれを祝したまい・・」と必ず読みあげるのです。最初の奇跡であるのです。人によって見る目が違うかもしれません。しかし、人生のもっとも幸福感に満ちた喜びの時が、不平と非難、嘲笑と不名誉になってしまうのです。新郎新婦と親族はいつまでも口さがない人の噂に肩身の狭い思いをしなければならない事でしょう。イエス様は、人生の祝福の時、皆が頬笑み、喜び、祝うことを中断してしまう事に心を痛めている母マリヤの信頼と敬慕に答えられたのです。奇跡は信じられないことが、経験したことのないことが、起こる体験であるのです。神様は愛であるのです。愛は奇跡を生みます。
マリヤはイエス様の全てを信じていました。神様は愛である、故に、責任を持って下さる。行動し、助ける活ける方なのです。
 第二に、イエス様の言葉によって甕から水を持ってきた僕は、どうしてその水が酒になったかを知っていました。味見した世話役は「どうしてこのような良い酒を後に出すのか。普通は酔いが回る頃にはもっと味のない酒を出すものなのに」といぶかるのです。この人の言葉はそこで終りになっています。誰がどうしてこのお酒を持ってきたのかは書いてありません。兎に角、この話はそこで終わります。そして、最後に「弟子たちはイエスを信じた。」(:11)とあるのです。おそらくはこの出来事は召使いや料理をしていた人達から広がったと思います。弟子たちはイエス様が神の御子でることを信じ受け入れたのです。
 人々は、イエス様が何をされたのかを知らないうちに宴を楽しんだのです。“知らないうち”に幸せを楽しむ姿を見ます。わたしたちは神様の恵みを自覚せず、知らないで、楽しむ姿をここに見るのです。神様を信じるということは、見えない神様が生活の中に共にいて下さることを現体験する事です。マリヤはイエス様が神の御子であることを確信していました。そこに神様の祝福が備えられている可能性を見たのです。そして、イエス様のみ言葉に従いなさいと言うのです。見えない神様を信じる時、見えない恵みが、神様の愛が見えてくるのです。生かされているわたし、愛されているわたしを発見できるのです。そこに感謝にあふれた日々が、賛美の日々が、勝利の日々があります。
 第三、カナの奇跡は、葡萄酒が人々が今まで飲んでいた量以上にありました。1升瓶480本、水が葡萄酒に変わった。それは沢山余ったでしょう。このような宴会の御馳走や飲み物は残すのが慣例でした。旧約聖書のレビにこのような御言葉があります。「ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。」(19:10)イスラエルではこの御言葉によって、葡萄や麦の刈り入れの時、「残りもの」ペーアーといって、もともと畑の「隅」という意味ですが、すみの麦を刈らないで貧しい人や、孤児、寡婦、寄留者に施しとして残してあげなさいということであったのです。そのことから、宴会のため働く召使いやたちにお下がりとしてふるまうのが習慣になっていたのです。イエス様が水から変えたよいぶどう酒も有り余るほどでした。神様の愛は思いにすぐる豊かな祝福を持って満たして下さることを教えています。
神様は信じ、従い、愛している人たちには言うに及ばず、神様を知らず、反抗し、否定する人たちへも同じくその恵みをもって待ち続けられる愛なる方であるのです。知らずに神様の恵みに生きるのでなく、イエス・キリストを通して表された神様の愛と恵みを受け入れて、現実に愛されてある自分を発見し、幸せの根源である活ける創造主なる神、イエスキリストを通して示された神の愛、信じる人共に真理の霊として共にいて下さる恵みの神様を信じようではありませんか。

「わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。」(詩103:2)


 

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