2013年 6月30日 礼拝メッセージ 

「種を蒔く努力と喜びの収穫」
詩編126篇1−6節

 詩編126編は、「都に上る歌」と表題にあるように、エルサレムでの祭りに参加するため、地方の村々から多くの人々が巡礼として都に上る時に道すがら歌う歌であるのです。長い歴史の中で、神様がどんな時にも守って下さり、絶望的な時にも必ず回復の道を備えて下さることを告白する歌であるのです。
 「主がシオンの捕らわれた人を連れ帰られると聞いて、わたしたちは夢を見ている人のようになった。」(;1)紀元前586年、バビロンにエルサレムは攻略され、イスラエルは崩壊したのです。そしてバビロンは、国家を指導する人たちを中心に、高度な技術職人の人々をも捕えて連行したのでした。その後70年に亘ってバビロンに捕囚され、イスラエルはバビロンの圧政の中、様々な文化の影響を受けながらも、信仰を守りぬき、回復を待ち望んだのでした。やがてBC539年にペルシャ王クロスがバビロンを亡ぼし、その翌年にイスラエルの第一回帰還が始まるのです。そして人々は喜び帰るのですが、荒れ果てた国土、エルサレムの神殿の残がいに絶望感に襲われるのです。しかし、どんなことがあっても神殿復興こそが第一の回復であると、取りかかるのですが、様々な試練に直面します。そして収穫さえ充分でなく、食糧事情に悩まされるのでした。
 この歌はそのような背景の中で歌われたのです。しかし、一節、二節を見る限り、帰還以前に解放の知らせを聞いた表現になっています。帰還ニュースを聴いて「夢」を見ているようであると言っています。その時、「口に笑いが、舌に喜びの歌が満ちるであろう」と言うのです。未完であるのです。しかし、3,4節でも「大きな業を成し遂げて下さい」「捕らわれている人を連れ帰って下さい」と言っています。おそらく、エルサレムの神殿が完成されるBC516年までに、全てのイスラエルが帰還するまでの試練の時に歌われたと言えるでしょう。その間、残留の人々の他部族との交流問題などによる確執や抗争などがあり、神殿再建が第一か、あるいは、生活、食物がなくては生きて行けないなどというジレンマがあったと言えます。
この詩編は一区切りおいて、全く情景の違う「種まきの苦労と収穫の喜び」の歌を付け加えています。不可能だと思っていた解放が実現したのだから、今、目前の困窮した食料の事情の中でも、神様は必ずその苦労に報いて下さるに違いないという、信仰の喜びの告白となっているのです。いつしか、この歌は収穫の喜びの歌となり、祭りのためにエルサレムに上る巡礼の歌として、その苦難を思い返しながら、どの様な時にも活ける神は共にいて助け、導いて下さる方であることを歌うようになったといえます。
 ウィーンフィルのニューイヤ・コンサートでは、ラデッキー行進曲が必ずアンコールで演奏されます。これはラデッキー将軍が北イタリア戦争で戦い、凱旋した時にそれを祝ってヨハン・シュトラウスが作曲した曲です。今はそのような背景に関係なく、この曲を演奏すると陽気で勇壮なメロディーに人々は手を打ってリズムを楽しむのです。
 詩編の126編もいつしか時が過ぎ、刈り入れの歌となり、エルサレム巡礼歌として歌われるようになったのです。今、私たちは信仰の歌を通して味わい深く神様の御旨を学ぶことが出来るのです。
 第一に、イスラエルの人々は、神様によるアブラハムの選びによって約束の地、カナンに導かれ、やがて、ヤコブの時にエジプトに飢饉の難を逃れて、不思議な逃避をします。やがて時代が変わり、ヨセフを知らないファラオのもと、圧政と苦難の中で解放を待ち望み、神様はモーセを通して出エジプトという救いの道を開き、「十戒」を与えて神の民としての使命を明確にされます。そして、ダビデを通して約束の地イスラエルのエルサレム、アブラハムがイサクを捧げんとした、モリヤの山に神殿を建てる準備をするのです。この神殿こそ、創造主なる神が、活ける神、全世界の唯一の神であることの証としたのです。エルサレムの神殿は、神様と会う場所であり、礼拝の中心であったのです。古代の民族の宗教観によると、他民族に滅ぼされた国は、その国の神が弱いので負けたのであり、神も滅ぼされたという考えが通念になっていました。イスラエルはバビロンに滅ぼされ、神殿が破壊されたのです。それはイスラエルの神が滅ぼされたことになるのでした。しかし、イスラエルはバビロンに捕らわれ、神殿を破壊されエルサレムから離れても、われらの神は創造主であり、世界の神であるという信仰を、しっかりと持ち続けたのです。バビロンには神殿はありません。しかし、活ける神は共にいて祈りを聴き、彼らをなぐさめられたのです。そこで彼らはモーセの律法を中心にした御言葉、聖書による御声を聞いて信仰を継承したのです。異郷にある苦難と迫害の中で、初めて活ける、創造主なる神がどのような方であるのかをイスラエルは明確に確信したと言われています。
 苦難と試練により、また、その孤独と困難によって、活ける神が、力と命、恵みの神であることを明確に自覚できたのです。真剣に祈る時に、見えない神は見える方として私たちの心に自覚させられるのです。
 第二に、この先どうなるか分らない不安の中にも、種をまく準備をする。固い土を掘り起こし、石を取り除き、土をならし、畦を作り、肥料を仕込んで種をまくという「涙」は忍耐であり、努力であり、工夫である。長い時間をかけて努力をし、忍耐することを意味しているのです。イスラエルの人々がバビロンに捕囚され、エルサレムに神殿を回復するまで70年の歳月を待たなければならなかったのです。回復の知らせを聞いた時の喜び、しかし、帰還後も国を再建するための様々な試練がそこにあったのです。それでもやがて神殿の完成の時を迎えます。
 私たちは今、現実に主イエス様を目の当たりにしてはいないのですが、全世界の人の救いと回復のために十字架に架かり、永遠の命の約束として復活し、信じる人々に救いを確信させるために、真理の聖霊を送られました。神を遠ざけ、拒絶する世界、暗黒の罪の世界、争いが絶えず、愛することを知りながら憎み、平和に生きようとしながら争う、和解しようとしながら許すことのできない悲しい世界が現実です。イエス様は「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタイ24:35)と言われており、再び、主が来られる事を聖書は記しています。(使徒1:11、Tテサロニケ4:16) イエス様が言われる通り、「あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)苦難がある、しかし、その中でこそ「平和」がある。試練の中にありながらイエス様を信じる信仰によって、「平和」があるというのです。涙を持って種をまくが、再臨の時、天地が再創造される時、喜びの歌と共に刈りいれることになるのです。
 種を蒔く前に、地を耕す。@イエス様の御言葉を聴くことから始まるのです。(ロマ10:17)聞いて信じることがあって、種が生かされるのです。A御言葉を心に蒔く。聴くことです。B御言葉に生きる。C日々の生活に御言葉が根差している。このことが最初に実行されなければ実りは望めません。
 第三に、絶えず見守り、手入れなくして実りは期待できないのです。信仰の手入れは「祈り」です。祈りこそ信仰に生きる証であるのです。信じていても祈りがないのは形式的な命のない信仰であるのです。試練の時にこそ人は、真実に「祈る」ことが出来ます。イスラエルは神殿を破壊されました。しかし異郷の地に捕囚されても、彼らは祈ることが出来たのです。祈りによって、どこにいても、いつでも臨在される主と命の綱は繋がっているのです。活ける神様は信じる者とどこにあっても共にいて下さる方であるのです。この祈りこそは信仰の基を大きく、大きく育てる命であるのです。
 第四に、試練が大きければ、大きいほどその刈り入れの喜びは大きいのです。手入れし、育てる手間をかければかけるほど稔りは豊かになるのです。イスラエルの人々は国の試練を通して刈り入れの喜びの真理を学びました。悲しみと逆境を通して忍耐と祈りの秘訣を習得したのです。使徒パウロは言います「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」(フィリピ4:4,5)

共に歌いましょう。主に向かって、
「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」(詩篇126:5,6)

 

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