2013年 7月7日 礼拝メッセージ 

「地の塩、世の光」
マタイによる福音書5章13−16節

 毎日、何気なくいただている食事ですが、美味しいか、美味しくないかは大体塩加減で決まります。京都の料理はうす味ですが、大変美味しく感じます。料理は、材料そのものの味を引き出すことが極意であると言います。料理人の腕の見せどころは、お澄ましの味付けにあると言います。そのだし汁の取り方には秘伝があるのですが、最後の決め手は「塩」加減にあると言います。塩の加減で全ての素材を生かすのです。塩は味付けの要であるのです。塩は、また腐敗をとどめる役目をします。野菜を漬け物にする時、塩がなくてはできません。魚を塩で保存します。塩がなくては生活出来ないのです。
 マタイによる福音書5章の13から16節には、「あなたがたは地の塩である」と、「あなたがたは世の光である」という2つの譬があります。光はあらゆる命の根源であると言えます。勿論、光なくして生命を維持する動植物もいます。しかし、地中の生命体のサイクルは太陽の光で生まれ育ち、動物はその光に命を支えられるのです。その根本はまた水にあるのです。しかし、水が生物を生かすサイクルは光によるのです。太陽の光が水を気化して雲とし、その雲から雨が降り、植物や動物を養います。そして、土や海から水は光によって再び、空に帰るのです。光は、世界を明るくします。
 イエス様が、「あなた方は地の塩である」「世の光である」と言われても、自分が実際には「塩」や「光」のように役に立つような存在なのか自信はないかもしれません。しかし、「塩」や「光」のように、この世に役に立つ者となるようにして下さるという約束が裏付けられているのです。「塩」や「光」で「ある」ということは、「なれるようにしてあげる」ということが約束されているのです。今、参議院の選挙が始まりました。それぞれの政党は、先ず現実の色々な問題を指摘して、これからの方策をスローガンとして叫びます。政治は現実のことですが、それは未来のことであるのです。理想のない政治はおざなりなものになります。未来の理想を描いて現実の課題を克服し、理想を実現することが必要です。理想のない政治は悲劇であるのです。政治家が立場を利用して権力を自己欲望の充足に向ける時、国民、国家の悲劇となります。「政治は道徳」であると言います。理想の根底に道徳がなくてはならないのです。徳の道とは「神の御心が地にもなる」(マタイ6:10)ことです。徳の道は神の道であるのです。「神の御心」は、「第一に神を愛する」こと、神の言葉に生きることであり、第二に、その愛をもって「人を愛する」ことであるのです。(マルコ12:29−31)「徳」は「得」を意味するように、「神の御心」に生きるところに「得」が生まれると約束します。この「得」こそ、「神様の祝福」です。国民の選んだ政治家は、又、「国民の顔」ともいえます。国民の中に、この世の塩が失われ、光が失せて闇である時、そこには人間の罪深い悲しみと嘆きが覆うことになり、希望が失われるのです。
 日本の社会ではクリスチャンは決して多くはないのです。けれども、神様の御心に生きる私たちに、イエス様は「地の塩」「世の光」であれと言われるのです。イエス様は「言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」(ヨハネ1:5口語)と言われました。どれほど小さい灯でも、暗闇が深ければ深いほど、それは希望となるのです。その光の希望は未来を開き、理想を実現する命となるのです。その命こそ、十字架に死なれたイエス・キリストの新しい復活の命であるのです。その命は、闇に閉ざされた罪深い人々のため、贖いとして示されたキリストの愛であるのです。愛は人を生かす命であり、この世に神の国を生きる希望です。
 第一に、あなた方は「地の塩」「世の光」と言われるとき、罪と争いの闇の世にあって、イエス様が示された神の国が必ず実現することを待ち望み、闇の現実の中で希望の光として神様の御心に生きることを意味しています。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」(エフェソ5:8−10)
 第二に、塩の効用は最初にも記したように、腐敗をとどめることにあります。使徒パウロは勧めています。「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」(コロサイ3:5−10)この御言葉のように、イエス・キリストが教えられているのは、以前の神様を知らなかった生活をやめ、「真の知識」を得、神様の愛に生きる道を歩むことです。塩が腐敗を止めるように、イエス様によって人を神様と和解させ、再生させられるのです。「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。」(Uコリント5:18−20)イエス様を信じる人々こそは、「地の塩」であり、現実のこの地の腐敗を止める役割、使命を頂いているのです。
 第三に、「地の塩」は、全てのものを生かす恵みです。料理の極意は素材の持っている個性の味を生かすことにあります。塩を多く使う料理は素材を殺すことになります。しかし、どのような料理でも塩がなければ味が出ないのです。甘いぜんざいも、少量の塩を入れることによって程よい甘さが引き立つといわれます。「塩」は味付けにおいて出過ぎると味を殺し、控え過ぎると味がなく、調和のとれた味つけこそが人々に満足を与えることが出来るのです。塩は姿が見えず、控え目であって全てを調和させて満足を与えるのです。素材を生かすことはこの世の人々を失うのでなく、生かし、喜ばせ、回復させるのです。その使命を委ねられています。私たちクリスチャンのあり方の真髄を表しているのです。「平和を実現する人は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれるであろう。」(マタイ5:9)
 第四に、あなたがたは「世の光」である。「光」は命を生み出します。それは未来に繋がる希望であると言えます。芽が出て茎が伸びる、葉がでて、伸びて行きます。そして花が咲き、実がなるのです。「光」の力で生命が育つのです。育ち実るときは未来です。だからこそ「光」は希望であるのです。そして必ずその命は実を結ぶのです。「光」こそ「信仰」と「希望」です。光は信じて待ち望む心を生み出すのです。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(エフェソ5:8)そしてイエス様は「わたしは世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12)と言われています。どのように闇が閉ざす時も、主イエスのお言葉には命の光があるのです。イエスを信じる信仰によって光り輝く、証しの日々を送ろうではありませんか。
 第五に、私たちの生涯には迷路に迷い込んだような経験をする時があります。光を失い周りが見えなくなる時、明るくても心の目が閉ざされ、失望する時があるものです。その時は道を見失っているのですが、実は自分自身が分からなくなる時でもあります。「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です」「詩編119:105口語」「み言葉」即ち、イエス・キリストの言葉です。「(キリストの)言葉の内に命があった。この命は人間を照らす光であった。」(ヨハネ1:4)この光こそ人を生かす光であり、命であるのです。イエスキリストを信じることはイエス様の光を内に頂いて生きることを意味するのです。「希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」(ロマ5:5口語) 「地の塩」「世の光」として活ける主を証しする日々を送ろうではではありませんか。

 

 ページのトップへ
  
2013年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ