2013年 7月14日 礼拝メッセージ 

「受くるより与うるは幸いなり」
マタイによる福音書7章7−12節

 人は幸せに生きたいと願います。あなたの幸せとは何かと問われると、色々な願望が思い浮かぶものです。食べ物がない時には、おなか一杯ご飯が食べたいなどと言うことになります。太平洋戦争の時、全ての物が配給で、米も野菜も魚も自由に買うことが出来ませんでした。いつも小さなお茶碗に一杯だけのご飯で、お腹が減るのです。そんな時に、お腹いっぱい食べたら幸せだろうなと思うのが人の常です。試練を通して喜び、感激を味わい、生活できることの幸せを噛みしめられます。その時代、時代によって人は様々な試練に直面することになります。デフレで経済は停滞していると言われている半面、物は溢れ、物価は安く、便利な製品は行き届き、しかも耐久性があって買い変える必要もない。経済はイノベーション(新しいものを作る)なくして進みません。3ヶ月周期で新しく売り出されるという製品事情であっても、人々はよほどの事がなければ購買しないのです。そこで値下げです。生産調整で会社は疲弊する、投資が出来なくなる、雇用、給料は低下、購買力がそがれる。デフレスパイラル(経済下降悪循環)の社会不安が広がっています。今、参議院選挙が行われようとして、その道筋の論戦が闘わされていますが、これは繰り返されることであるのです。
 生活が豊かな時でも苦しい時でも、人それぞれに家族のことや、自分の仕事の悩み、恋の悩み、健康の試練などがあるものです。人にとって最も不幸なことは「孤独」に陥ることです。孤独は、心が閉ざされることであり、閉ざすことでもあるのです。親しく相談する人もいない。声をかけてくれる人もいない。イエス様は「(すべて)疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と言われています。例外なく、どんな人でもイエス様の元に行くならば「休ませる」即ち、孤独や悩み、悲しみにある時、解決の希望を与えるというのです。そして休み、即ち、平安を与えると約束しているのです。
 人は幼い時より普通は両親、特に母の愛情によって育てられます。母の乳房に命の源を求めて育つようになっているのです。母の乳房に満足し、心の平安を与えられ育つことになるのです。幼い時より愛情が欠如すると不安となり、自分を守ろうとして自分を防衛するようになります。絶えず不安におびえ、愛を求め、愛することを失うことになるのです。自分の安心を求めて自己中心になり、自分を中心に生きるようになるのです。そのような人の集まりがこの世です。自分を中心に人のことを考えないで、ひたすら自分の欲望を求めるようになって裏切りや、弱者いじめ、人を欺いても富を求めるようなことが起こるのです。いつの間にか経済の仕組みが複雑になり、ないものをあるように見せかけ、お金を品物として買ったはずの家がお金とし売り買いされてなくなるというような現象が起こる恐ろしい世の中になっているのです。それがサブプライムショックと言われるものです。この世の中が、人としてしてはならないことを平然とし、自分の欲求を満たし、利益だけを求めるようになっているのです。言換えれば現代人は「孤独」であるのです。人を真実に愛することを忘れていると言えます。和辻哲郎という学者は、「人は、人の間である」と定義しました。アリストテレスは「人間は社会的動物である」と言いました。それは「交わりの存在」であると言えます。人は人と共に生きることで「人間」になるのです。それは「愛し合って生きる」ことであるのです。自分の欲望や欲情を満たすために生きることが、人を裏切り、騙し、傷つけることになるのです。かって青年実業家が、「お金さえあれば何でも買えて幸福になれる」と言ったそうです。お金で買える「愛」は、金がなくなる時になくなるのです。聖書の言葉であるギリシャ語には色々な「愛」の表現がありますが、主に3つを上げることができます。生存のための自己愛、欲望の愛は、エロスと言います。自己愛は大切な愛であるのです。それは人間の一部であると言えます。そして、家族、友人などと共に生きることによって人は人であるのです。その「愛」はフィロスと言います。しかし、「母の愛は神の愛に似ている」とカルヴィンは言いましたが、母の愛も自分の子供への愛に限られ、不特定多数の子供を愛するのには限界があります。神様の「愛」、アガペーは愛する者のために犠牲をいとわない「愛」であるのです。エロスもフィロスも限界の中での愛です。アガペーは愛している者のために自分を犠牲にする愛です。この愛が家族や友人、この社会の中に生かされる時に、神の国、真実の平和と平安があることになります。しかし、現実にはエロスとわずかなフィロスの愛で生活は移ろい行くのです。
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(Tヨハネ4:7−9)真実の「愛」は神様から出るものであるとあります。
神様は御子イエス・キリストの十字架の出来事を通して神様の「愛」の真実を示されたのです。愛することは愛している人のために犠牲となることを、イエス様によって示されたのです。「その方によって、わたしたちが生きる」ために、イエス様によって神様の愛を、即ち、神そのお方を示されたのでした。人が互いに神様の愛で生きる時に、人は一つになることが出来るのです。一つとは一致であり、合意であり、融和であるのです。そこに平和と平安の希望が生まれます。イエス様は最後の祈りを弟子達と共にいる時にされました。それは「すべての人を一つにしてください。」(ヨハネ17:21)という願いであったのです。神様の愛は神様を信じ、その存在を自覚してその御心を悟るところに実在するのです。
現実の世界で、神様を忘れ、否定し、反抗する時、本来人にあるべき神様の愛が見失われているのです。創造主であり命の根源者であり、愛なる神様を信じることは、「愛されている自分」の発見であるのです。人間は生を受けると共に愛されて成長するのです。一人一人が生きようとする時、そこに呼吸のために空気が備えられ、母の愛と乳が備えられて生きることが出来るのです。神様を信じることは「生かされている自分を発見する」ことです。どのような境遇にあっても人は神様を信じる限り「孤独」ではないのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)とイエス様は言われています。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。」(マタイ7:7)と言われている御言葉は、ヨハネによる福音書の16章33節にある「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」という御言葉を裏付けにしているのです。確かに、生きることには苦難がつきまとう、しかし、勇気を出しなさい、私は既に、勝利の道をあなたの前に備えているのである。だから「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」と言われるのです。これは「祈りなさい」という意味であると言えます。ルカによる福音書11章に、主の祈りで「日々の糧を与えて下さい」と祈ることに続いて、真夜中にある人の友人が、「友達が旅行中に家に立ち寄ったが、食べさせる物がない。パンを三つ貸して下さい」と言いに来た。その家の人は「夜遅く、寝てしまったので面倒をかけないでくれ」と言い、起きようとしない。しかし、いくら断っても哀願するのでその熱心さにパンを与えたという譬がある。熱心に頼めば必ず道はひらかれる。そこで「求めなさい」と言う言葉が続くのです。「求めよ」「探せ」「叩け」、地上の父がその子がパンを求めるのに石を与え、魚をほしがるのに蛇を与えるよう事はしない。ましてや天の父なる神様は「求める先からあなたの必要をご存じである」(マタイ6:32−33)とイエス様は言われています。その時点で神様は祈る人の最善の答えを備えて下さることを意味することになります。「求める」、今の必要を心から願うことが大切です。「祈り求めるものは全て既に得られたと信じなさい。そうすれば、その通りになる。」(マルコ11:24)とイエス様は約束されるのです。
先日何気なく書斎の本を見ていると、何時か買った「この深い河をこえて」というクリスチャンの証し集が目につき読んだ。それは声楽家三浦はるみさんの記事でした。三浦さんは子供の時から歌うのが好きで、幼少のころより音楽家を目指して音楽高校、大学へ進み、卒業後レッスンを続けたが、やがて結婚することになり、育児に追われようになり歌から遠のくようになる。やがて子供の学校で保護者会があり、いま一番興味を持っているものは何かを話し合った。その時、「わたしは歌だ」と自問自答したというのです。そして、母校の先生に学び、やがてコンサートを開くまでになった。その最初のコンサートの始まる前に舌の裏に白い斑点を見つけた。口内炎だろうと思っていた。そのうちに顎関節症になって受診した。その時舌の裏の斑点のことを言ってもよくわからない。そのうちに急に体の調子がおかしくなり、別の病院で診てもらうと「舌ガン」であることが分かったのです。それまで教会に時々行っていたが、あまり興味を持たなかったのです。しかし、生きるために真剣に神様を求めようと思ったのです。そして牧師先生の導きで「 わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。」(イザヤ43:4)の御言葉に支えられ治療を受ける。舌を切除するか、放射線治療をするかであった。後者をとって治療したが、間もなく舌を切除しないと無理であることが分かり、手術を受ける。歌えなくなった。弱り切った体の手足を動かし、声の出ないのどから声を出す努力をする。友達が「病院でコンサートを開かないか」と持ちかけてくれる。不安を覚えながらも歌おうとする。歌うことによる献身を考えて、歌をなんとか始めようとする。そして、レッスンをしているうちにどんどん声が出るようになり、病院で念願のコンサートを開くことが出来るようになった。多くの苦しみを持つ人々の前で「あなたはあなたで素晴らしい。私は私で素晴らしい。一人一人に生きている価値があることを伝えよう思った」というのです。希望を持って神様に生かされている自分を感謝して勝利の日々を送ることが出来るようになったのです。
 「求めよ」「探せ」「門をたたけ」受けるだけでなく、自分が神様から受けた喜びを与える人に変えられると約束しているのです。何もないような自分が、人々を豊かにするという恵みを神様は与えて下さるのです。
「わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。」(ロマ5:2−5口語)

 

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