2013年 8月4日 礼拝メッセージ 

「チャンスを生かす決断」
マタイよる福音書11章20-24節

 デンマークの有名な童話作家、アンデルセンの童話に、「皇帝の新しい服」という話があります。日本では「裸の王様」として知られています。ある時、ある王国に二人の詐欺師の布織職人がやって来て、不思議な織物を織れると触れ回りました。その織物は、愚者と適していない仕事についている人には見えないものであるというのです。人々は珍しがって誰か一回着てみてはと言いますが、いざと言うと皆尻込みをしてしまうのです。王様の耳に入り、王様は、それでは私が着てみようと職人を呼んで織らせるのです。職人は織り上がった布で服を作り、洋服架けに架けて出来ましたと王様に報告します。王様はどう見てもそこに洋服が見えないのです。しかし、愚者と自分に適していない仕事についている人には見えないとはじめに聞かせられているので、王様が見えないと言うと、「自分は馬鹿で、王様の仕事に向いていない」と皆に宣言することになります。それで家来に「これは立派な服であろう」と言うと、家来も見えないのですが、王様の手前「本当にお似合いです」と言うのです。王様は家来に見えて自分には見えないと思っている。見えないその服を王様は着るのです。ほめそやす家来の声におだてられて王様はパレードをします。人々も王様が裸(実は下着だけ)で歩いているパレードを見て声をそろえて「王様の服は素晴らしい」と言うのです。暫くするとパレードを見ていた一人の子供が「王様は裸だ」と叫んだのです。パレードは何くわぬ顔で過ぎて行いって物語は終わります。
 この童話は、大人の偽善性、見栄の愚かさ、権力におもねる卑屈さと滑稽を示しています。又、見栄や、嘘に対して、本当の事を率直に教えてくれる勇気のある声をないがしろにする悲しさを示しているとも言えます。
 マタイによる福音書11章20―24節に、イエス様は人が見えていると云いながら、本当は見えていない、聞こえると言いながら聞こえていない、服を着ていると言いながら服を着ていないという真実の自分を知り、見えない神様を見える、実在の方であるという自覚をもつようにと人々に叫ばれる言葉が記されています。ヨハネ黙示録にはこのような言葉があります。「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。」(3:17,18)イエス様は、その生涯の殆どをガリラヤ湖の周辺で活動されたと言われています。この個所にあるべトサイダ、コラジン、そして23節にあるカファルナウム(カペナウム)の三つの町はガリラヤ湖の北側にある町でしたが、今はすでにその後すらも分からなくなって、後の二つの遺跡が最近ようやく発掘されたのです。カファルナウムは大きい町で、イエス様の宣教の基地となった町として知られています。しかし、イエス様はこの町々でみ言葉を語り、祈って奇跡や不思議を現わされても、人々が真実の罪を自覚して悔い改めて神様の真意を分かろうとしないかたくなさを嘆き、譴責されているのです。
 自己満足に堕ちる時、現実の様々な問題が見えなくなる時があります。自己満足に陥っている時には、人の忠告は耳に入りません。その真実の自分のありのままの姿を自覚して、初めて自分に何が必要かが自覚できるのです。イエス様は、「叱り始められた」とあります。口語訳には「責め始められた」と訳されています。この言葉は原語ではオネイヂゾー(όνειδίζω)であって、「責める」「咎める」「そしる」などの意味がありますが、ある注解では「恥の心を呼び起こす」という意味であると教えています。叱ることの前には過ちがあり、問題があることになります。イエス様は、コラジンや、ベトサイダ、カファルナウムの人々がかたくなであるということは、ティルス(シロ)や、シドン、ソドム、いわばこの町々は神の御心から遠い異国堕落した町であるけれども、やがて終わりの時にはその裁きは、お前たちの方が耐えられない苦しみとなるであろうと言われているのです。
 第一に学ぶべきことは、主が言われる「叱られた」こと、「恥の心を呼びこす」ということです。恥かしいことを恥として自覚しない悲しさであるのです。主は、罪を犯して「悔い改めない」人々に、「罪を犯す恥」を嘆いておられるのです。「数多くの奇跡」を行われ、神が愛であることを証明されたのです。「数多くの奇跡」とは、その力の限り、その力のすべてを持って力ある業をすることを意味します。奇跡は、困っている人、絶望している人たちに解決、解放、即ち、救いを開かれたのです。イエス様の奇跡は、「神様が活きておられる」「神様は愛である」ことのメッセージであるのです。父なる神様は見えない、しかし、主は言われているのです「わたしを見た者は父なる神を見たのである」(ヨハネ14:9)。活ける神の言葉を聞かせ、その言葉の真実を奇跡を持って証明したのに信じようとしない人々に神様の愛を表した。しかし、人々は、イエスは大工ヨセフの子ではないかと見下すのでした。「故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。『この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。』」(マタイ13:54-56)
 悪い、間違っているという自覚、それが罪の自覚となり、反省が生まれ、悔い改めの心が生まれるのです。日本は「恥の文化」であると言われます。しかし、その恥は世間体であるのです。イエスの言われる恥は「神様の御心の真実」をわきまえない、無自覚に生きることを言います。神様を信じることは、神様に出会うことであるのです。聖なる神様に出会う時に人は自分の醜さを自覚するのです。本当の自分に出会うのです。神を知らないことが空しく、儚く、人は自分の欲望と欲情に生きることになるのです。人間性の消失を恥じらい、神様を信頼しないことが罪の根源であることに気づくことになるのです。
 第二に、主イエスは嘆かれるのです。イエス様は最初に「お前は不幸だ」と二回繰り返されています。口語訳では「わざわいだ」となっています。「悔い改めない」が「わざわいである」「不幸」であるとイエスは言われるのです。この言葉は「わざわい」「不幸」という嘆きの言葉であり、本来、言葉でなく感嘆の発声であると言うのです。原語ではウーアイ「οϋαί」と言い、「あーあ」というような嘆息の表現であるのです。イエス様は人々の災いを譴責するのでなく、嘆かれているのです。そこには愛する思いと切ない思いがにじみ出ています。明らかに不幸になる未来、裁きの日の救い難い現実を見通して、悲しんでおられる姿があるのです。言換えれば、主はご自分の歩むべき十字架の道を思い、その犠牲を見通して人々の無意識に悲しみと嘆き、そして渾身をもって「悔い改め」を迫られるのです。
 第三に、主イエスは、ソドムを思い返し、その罪悪の裁きの時に今見ている救いの業が彼らを回心させていただろうにと嘆かれているのです。救い主イエス・キリストを信じることは、主の道を歩む、解放と救いの道です。その道は主のみ言葉を進み、歩み続けることであるのです。そのみ言葉の核こそ「十字架の言葉」です。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(Ⅰコリント1:18)。十字架の元にある時、イエス・キリストの赦しと贖いが、神様の温かい愛の回復の道が備えられているのです。「悔い改め」こそは、再起のチャンスであるのです。「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか …あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。」(ヘブル12:2、3)
「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。」(イザヤ55:6,7)

 

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