2013年 8月11日 平和記念
 礼拝メッセージ
 

「天国の平和と地獄の戦争」
マタイによる福音書5章8−9節

 毎年、8月になると終戦記念日を迎え、さらに6日は広島の原爆投下記念日、9日は長崎の原爆投下記念日です。1945年8月6日午前8時15分、広島に人類が初めて経験する原子爆弾が投下され、瞬時に16万6千人の市民が被爆し、命を落としたのでした。9日午前11時2分には長崎で被爆のために7万4千人が死んだと言われています。生存することの出来た被爆者は、未だにその後遺症のために苦しんでいるのが現実です。洋の東西の戦争で非戦闘員を爆死させるようになったのは、第二次世界大戦からです。戦争は人を殺戮する地獄です。そこは神様のいない世界になります。
日本は太平洋戦争が終って平和憲法を土台に新たしい時代を迎えました。戦後、68年、日本は戦争を放棄し、平和になりました。そして資源もない狭い島国に、1億2千万人が生活しています。70%は山地で農耕地は少ないのです。「食べるものが不足する。資源がない」、このことが戦争の大きな理由の一つでもあったのです。戦争によって拡大した領地は返還して元の島国になりました。しかし、荒廃の中から68年、世界のあらゆる分野、経済、教育、医療、社会保障で最高水準になっているのです。食料の70%は海外からの輸入で補給され、不思議なことに耕地面積の稲作減反政策が長く続いています。戦後の日本は、憲法で「戦争放棄」を明記し、信頼と敬愛を基本に平和を希求する国になったのです。
最近、「終戦のエンペラー」という映画を見ました。マッカーサー元帥の戦後の来日に始まり、その副官であるフェラーズ准将の天皇の戦争責任を裏付ける調査がストーリーになっています。映画をプロデユースした奈良橋陽子は、終戦の時、天皇陛下の側近であった宮内庁職員関根貞三郎を祖父に持ち、終戦の時の陛下の周りで起こった出来事を聞かされていた時、フェラーズ准将のことを知り、その史実をもとにノンフイクションとして制作されました。この作品は、岡本嗣郎作「終戦のエンペラー」《陛下をお救いなさいましー河井道とフェラーズ》「集英社文庫刊」の本《英語版》がそのモデルになっています。監督ピーター・ウェーバーは英国人でニュージーランドを撮影地にし、また日本でも撮影され、皇居を最初に撮影地としたといわれています。極東国際軍事裁判で天皇の戦争責任の資料を収集する占領軍の担当として、フェラーズ準将の周到な調査努力がドラマ化されています。最後に木戸幸一と関根貞三郎が終戦の御前会議の天皇の採決といきさつを説明し、その後、軍部が最後まで終戦に反対する映像が流されます。その背後には近衛隊長が殺害されるということも起こります。その背景で玉音放送版が守られ、8月15日正午に全国に放送されるのです。このような経緯の中でフェラーズ准将は、天皇には戦争責任はない無いと結論付け、マッカーサー元帥に進言報告するのです。そこでGHQに陛下を迎え、その人柄を元帥は確かめようとします。その時が来ました。元帥はおそらく陛下は命乞いに来るのではと予測していたのです。しかし、映画では陛下は「戦争の責任は私にあるのであって、国民には責任はない。国民を助けてほしい」と言われるのです。実際にインターネットの映像で配信されているフェラーズ准将の言葉は、天皇は「わたしの名で戦争を戦った国民には責任はない。自分に責任がある。自分の命はどうなってもよい。国民の命を救ってほしい。」と言われているとあるのです。この言葉にマッカーサー元帥は感動し、このような支配者を歴史の中で知らないと言ったということです。そこには様々な意見があることでしょうが、日中戦争前後から中国侵略の野望を画策する関東軍が政府と乖離して縦横に戦火を拡大していきます。そして明治憲法の統帥権を立てに軍部は権力を掌握し、軍国政権が国政を蹂躙し、人権と思想の統制で支配し、宗教や言論の自由をも抑圧するのです。天皇を形骸化し、天皇の統帥権を利用して武力を背景に抑圧と恐怖政治となるのです。この映画の中でも鹿島大将(架空)に語らせているのですが、「日本は欧米の列強の侵略を止め、対応するために戦争をしたのだ」という、確かに世界の近代史では欧米の列強の国々が世界の無主地域(国)を支配しても良いという国際法を実行したにすぎないのです。無主国とは自分の国を守り、治める能力のない国(地域)をいいます。その解釈は列強の判断であるので、無いのも同じで、強い者が国を支配して良い、これが植民地であり、勝った国は支配する国の生殺与奪は自由であるというのが国際的な慣例になっていたのです。支配国に反対する者は、弾圧殺戮は当然であることになります。国家の主権を失った国民は限りなく悲惨なものであるのです。それがヨーロッパの先進列強の国々を中心に第一次世界大戦、第二次世界大戦と19世紀から20世紀に続くのです。ほとんどのアジア、アフリカ、中東の国々は戦乱の場となったのです。
かつて日本も開国を欧米に迫られ、明治維新の動乱を通して近代化するのです。
「八重の桜」の会津藩の悲劇を見ても分かるように、正義がどこにあるのか苦しむのです。蛤御門の変で会津と薩摩は朝廷を守るために戦います。しかし、やがてそれが逆になり鳥羽の変で敗退し、会津に帰って闘いながらも討幕軍(薩摩)に降伏を申し出ても受け入れられない、朝敵として屈辱に苦悩する会津の人々の悲劇をどのように理解したらよいのでしょうか。八重の兄覚馬は、岩倉具視が驚くほどの近代日本の素地を構成する思想を持っていました。そして彼が荒廃した京都の再建を成し遂げ、八重が新島襄の同志社建学の道を開く石杖になるのです。襄は43歳の若さで世を去り、その後、40年生きる八重は、ナイチンゲールの赤十字の精神の基礎を日本に築くことになるのです。
近代化の中で襲い来る戦争の悲しさの歴史でもあるのです。強者が権力の座に就き、弱者を支配する、“勝てば官軍”ということが底流となっていたのです。
 今日、韓国・北朝鮮と共に中国の反日感情は、朝鮮併合、中国侵略の近代史を背景に戦後68年がたっても恨みの情は計り知れないものがあります。しかし、インドや東南アジア諸国はどの国も対日感情は極めて良好であるのです。日本は、太平洋戦争でアジアの広域に確かに侵略をしたのです。そして朝鮮半島の国造りの様々な基礎を築いたとしても、人権を蹂躙し、略奪し、反抗する者は弾圧して、殺戮したのです。そして王朝を消滅させてしまったことは、もし、日本で皇室を消滅させたら、その国民感情は計り知れない憎悪と反感が湧きあがると言えます。戦後の占領軍が天皇制を残し国民の心情に配慮したことを思うと、韓国・北朝鮮、中国の反日感情の深い根が見えるのです。東南アジア諸国が西洋列強の植民地政策から解放した日本としてみている感情とは格差があります。トルコや中東の国々でもヨーロッパの列強の侵略を止めた国、日本として友好的な対日感情で知られています。特にトルコは、日露戦争に勝利した日本に敬意があると言われます。世界の列強にアジアの小国日本が戦勝し、中東・アジアを侵略したヨーロッパ列強のロシアに勝利したことは自らの屈辱を果たした思いがあるのでした。トルコでは子供の名前に“東郷”や“乃木”とさえ付けると言われているのです。
 日本はこの戦争の悲劇と過ちを再び繰り返さないと、世界に戦争放棄「平和憲法」を宣言しているのです。しかし、依然として近隣諸国の反日感情が激しい大きな理由に国家の責任を持つ閣僚が靖国神社を参拝することにあります。その理由に極東裁判で戦争責任を問われたA級戦犯の中心的な人々が合祀されていることへの反発があります。日本人にとっては誰でも“死んだら仏”になるという考え方があるのですから、古来、敵であっても弔うことに違和感はないのです。しかし、靖国神社は明治以来、国家神道の国策によったものでした。それはやがて軍国主義の精神的支柱として人命軽視の戦争を美化するものとなっていったのです。近隣諸国との平和・友好を願うならば戦争の遺した傷の痛みをなくすことが今後の平和日本のとるべき道であると言えます。その証として“天皇は靖国神社に行かれない”のです。だからこそ、過去に国家のために殉じた人々と共に、新しい平和日本の国家のために公共のために殉じた人たちを祈念する全国民的な記念碑を建設して、天皇をはじめ、全国民が平和を祈る場を建設することこそ世界への友好の証しとなるでしょう。
 真実の平和とは、第一に、人が、人として尊ばれることです。聖書は神の言葉です。神の国の言葉です。神の国は神のおられるところ、即ち、イエスは言われています、「『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:21)神の国とは人が尊ばれる国であるのです。神に愛されている人のいる国、神を愛している人々の国であるのです。神の愛のあるところに神の国があるのです。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤ3:28)この言葉は、人間は皆平等であって、自由で、尊ばれる存在であるのです。
 第二に、真実の平和は神様の愛があるところです。愛は、単なる存在でなく「命」であるのです。人が生きるのには命、血が支えであるように、人の心に神様の愛があれば、愛に生きる人となるのです。神様の愛が事実となることころに神の国の平和が露わされるのです。平和は、愛に始まるのです。愛は信頼です。信頼のない愛は偽善です。信頼のないところには友好は生まれません。愛は人を一つにします。一致のあるところに平和があります。神様の国は一致と協調、そこに共生が実現します。そこに神の平和があるのです。
 第三に、真実の平和は神様の愛のあるところにあります。その愛は、“赦し合う”ことによって実現出来るのです。「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:8,9)神様を眼で見ることは出来ないのです。しかし、「心の清い人は神を見る」というのです。神様を見るとは、神の国に生きることであるのです。「心の清い」とは罪赦され、汚れを清められている人です。罪は、互いに生きる約束、決りを破ることです。そこには償いが生じます。赦しはその償いを果たさねばなりません。「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」(コロサイ1:20)キリストが全ての人の罪の贖いとなって和解となり、神様に帰る備えをして下さったのです。罪の根源である神様を忘れ、神様から離れている時、人間は自己中心となり人との絆がなくなるのです。そこに不信と欲情の闘争がこの世に渦巻くことになります。神のない世界、地獄には争いが絶えないのです。「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブ1:14,15)人は、一人一人が心から神様を信じない罪の根源を自覚してイエス様の十字架の贖い、和解の恵みを受け入れ、罪を悔い改めるところに真実の平和の回復、実現が約束されているのです。
「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。…平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。」(ロマ15:13、33)

 

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